プロフィール的ふりかえり1
noteを始めたのも何かの縁、来年1月で還暦を迎える。
会社入りたての頃は、還暦といえば定年、随分と年寄りっぽく感じていたが、いざ自分がその年齢を迎えるとなると、実感はない。
ひとまわり経つので、自分探しの振り返りをしてみようと思う。
高校1年生の夏休みの1ヶ月をアメリカ中西部のホストファミリーのところで過ごした事が大きな影響を与えてくれたと思う。
<当時のホームステイは>
現在のような語学留学ではなくて、中西部の4Hという酪農の団体と日本の英語ラボ間で、それぞれホームステイをしたい人と受け入れをする形でした。相互ではないので、翌年受け入れたいと言ってもその家の子が来るわけではない。さらに、アメリカ側に選択権があり、受け入れも行くところもアメリカ側が選択する。私は高校1年だったが、中には小学5-6年、中学生もいました。
その年は1976年独立200周年の年で(というと年がバレてしまうけど)、1ドルが360円の時代です。テレビでしか見たことのない世界、飛行機も乗ったこともない、無事に帰ってこられるかわからないなんて変な覚悟をして出かけた。
その州の大学で一泊して東西南北に向かって数台のスクールバスで町ごとに行く。ホストファミリの両親をあえてパパとママと呼ぶことにする。パパもママも筆不精で写真すら送られてなかった。どの人なのかも分からない。なんてことからスタートした。
<日常の生活を見せてくれる>
日々の生活から、何も作ろうこともなく、生活圏のいろんなところに連れて行って説明をしてくれる。教会や学校、農場などなど。いきなり親戚の家に4日預けられたしまったこともある。例えは変だけど、保護猫が家に迎えられたようなもの。猫の場合は猫用の準備はするけど、人間は寝る部屋があるだけ。言葉が通じない分からないのは、同じ。パパは朝鮮戦争の時日本に少しいたことがあるが、二人とも日本は全く分からない。そこで、お互いどうしたら伝わるか、何を話そうとしているのかを考える、違う表現をしながらやり取りする。
当初、全く英語が分からないと思っていた両親が、教会で賛美歌を歌う私を見て、英語が読めるのが分かったらしい。そこで、コミュニケーションに筆談が加わる。私は、一方で朝で台所にいるのだから、食事の単語だろうと推測してこの言葉かなと発音は悪いが繰り返してみる。状況と推測、観察で慣れていった。
でも冗談だけは分からなかったし、今もわからない。
<何でもチャレンジ>
一緒にいろんなところに連れていってもらった時、やってみるかというのは、全部「YES」と挑戦してみた。びっくりしたのは馬に乗ってみるか?と聞かれて、乗り方も教わったことないのに大丈夫かなと思ったが、日本ではそんなチャンスはないから「YES」と。手綱捌きを教わり30分後には軽く走るぐらいまでできるようになった。若かったとは言え貴重な経験でした。
同じ町にホームステイしている家に行くのに、自転車を借りた。坂を降りはじめてハンドルについているはずのブレーキがない。足と体で止めたのだが、後で聞くとブレーキはペダルを逆に回転させればかかるらしい。質問してよく調べずに行動に移すものだから、「やってしまった!」なんてことはしょっちゅうだ。
当時で食洗機もあったし、デカイフリーザーや全自動洗濯機とか、カルチャーショックを感じたこともありました。中西部は酪農を営む人が多い。自分の家を骨組みとガス水道電気を引いてくるのは専門の人に頼むけれども、他は自分たちで作るのだ。なので、まず地下のフロアーを1−2年かけて作り、地下に住みながら地上を建てる。農家のように広いうちは4−5年かかって出来上がる。いやーすごいな。そういうことができる家で暮らしたかったなと。自分で学べばいいのだが、基本が雑だからね。向かないかも。
パパもママもなかなか私がうまく喋れなくても、続けてと辛抱強く聞いてくれる。ゆっくりいろんな表現で喋ってくれるが、子供は早口で容赦ない。とても聡明で寛容な両親に会えたと思った。言葉はあまり通じなくても心が通じていると少なくとも私は思っていたのだ。後にママもそう感じていたようだ。
さて、帰る頃には、多少は自分の意思は話せるようになったので、日本に帰る前にまた大学にみんなが集合したときに、電話交換を通して他の子達のホスト先に電話を繋いであげられるようになった。交換の人も「日本人の子が電話を繋いでって言ってる。」みたいなことを話していた。
日本に戻って留学を目指して勉強すればよかったのだが、先のことを考えずに遊んでばかりいたから短大卒業後、普通に就職となってしまった。
その後、8回に渡り、両親に逢いに行くことになる。その話は次回。