日記 深夜ラジオに残された世界


なんか最近生きづらいなと思うことが増えた。


去年の終わりに目にした好きなアーティストの言葉で、印象強く心に残った言葉がある。
「何があっても音楽だけは続けなければならない。」

NHKのドキュメンタリーとかでよく耳にするようなセリフなのかもしれない。
でもそういう言葉がたまに脳裏に焼き付いて忘れられなくなったりする。
たぶん今、私が心の底からその気持ちを、自分のものにしたいと思ってるからだと思う。


とにかく個人が尊重される時代だ。
例えば、テレビで少しでも人を傷つける表現は、放送されずにカットされてしまう。
例えば、〇〇症候群のような、アルファベットの大文字の羅列をよく見るようになった。
例えば、今や喫煙できる場所は日々限られてきている。

それだけ今まで埋もれて見えていなかった部分が、世の中に認知され、「すべての人」にとって生きやすくなっていっているんだと思う。
いいことだ。
でもわたしは少し恐ろしいことを考えている。
その影響で、今まで表現されてきたいろんな事柄や言葉が、封印されていくことが怖いと感じるのだ。
わたしが傷付かなかったとしても、どこかで傷付いている人がいる。これは他人の気持ちを考えるのが苦手なわたしなので、絶対に忘れちゃいけないことだと思う。
でも単純に、やっちゃダメなことが増えたな、と思う。


火花というドラマを見た。
何があっても人に媚びず自分のスタイルを貫く神谷という芸人と、その弟子徳永の話だ。
ネタバレになってしまうので申し訳ない。

下ネタも、時には人を傷つけるネタも悪びれず披露する神谷は、当時ネタさえろくに披露させてもらえない新人芸人徳永の目に力強く映った。観客を罵り、罵声を返され、それでも全く懲りずに自分のお笑いをやり続ける神谷に徳永は強く心を動かされ、弟子入りを申し込む。そして2人はよくつるむようになる。
しかし、始めはそれでも面白いと認められていた神谷だったが、周りを置き去りにして自分の思う「面白い」を追求するあまり、暴走して1人で突っ走ってしまい、いつの間にか自分が世間から置き去りにされ、誰からも面白いと言われなくなってしまう。そのうち借金は膨れ上がりどこで何をしているか徳永にさえ分からなくなる。

一方徳永は、一時は芸人として火がつくも、チャンスをものにできず、次第に飽きれられ、お笑いの道を離れて不動産屋で普通の会社員として働くようになる。

そんな徳永の前に数年ぶりに現れたのは、胸に大量のシリコンを入れ女性のような乳を持った神谷だった。ただ面白いという理由で豊胸したが、周りからは引かれどうすればいいのか分からないと言う神谷に、徳永は涙を浮かべながら話す。
「おっさんが巨乳にしたら面白いっていう発想と、性別の問題と、全然違うのは僕は分かってます。でもそれは、一緒やと思われるんですよ。それは許されへんものになるんです。」

これは逆襲なのか。
今まで散々世の中に反発して、自己中心的に「面白い」だけを貫いた神谷に対する、世間からの逆襲なのか。

極端な言葉を使う。
今までいじめられてきた人たちにスポットが当てられるようになり、権利を握った彼らによって、世の中からあぶれた行動をとる者はあっという間に立場が逆転し、ネット上で見えない刃物によって虐げられる。
これって妥当な報復に思えるけど、結局は誰かを傷つけておかないと気が済まないという人間の性質なんじゃないかと思える。

わたしは深夜ラジオで、「こんなこともう今の時代じゃ言えなくなりましたよね」と話す芸人さんのトークを聞いて、正直やるせない思いになる。
人のことを傷つけていいなんて思っていない。
傷つけたいとも思わない。
神谷がしたことを肯定するつもりも端からない。

個人を尊重しましょう。個性を大事にしましょう。
結局、尊重しすぎるあまり「やってはだめ」なことの方に重きが置かれてしまい、世の中がまるで感情の起伏がない平坦なものに思えるのだ。
ああしましょうこうしましょう。過保護と思える社会で、その結果みんな同じような顔で笑っている未来が怖い。
ファイトクラブで物に支配されない世界を望むべく集まったスペースモンキーたちが、騒乱計画において結局みな同じような丸刈りにし、同じような服を身に纏い、アイデンティティを失って無個性化されていったのを思い出す。

制限された中で表現できる世界は、どんなものになるのだろうか。
深夜ラジオではどんな会話が繰り広げられていくのだろうか。

この話に同調してくれる人は少ないと思う。
わたしでさえ尖った話をするヤツだなと思う。

冒頭の話に戻る。
「音楽だけは続けなければならない。」
わたしはここにただならぬ強さ、覚悟を感じる。
このアーティストの言葉と、わたしの思う「過保護の話」は、話のベクトルが全然違うだろうと思われるかもしれないのだが、なぜわたしに響いたのか、その理由がこの言葉の中にあるような気がするのだ。
生きづらいと感じると述べた。
個人を尊重するあまり表現の仕方が制限されてきている世界。見えないものに支配されてゆく世の中。
「音楽だけは続けなければならない。」
なんと力強い誓いだろう。
これは、そのアーティストにとっての生きる覚悟だ。
これだけは何があっても辞めないと言えるものは、私にとってなんなのか。
私にとってのこの「絶対に続けなければならないもの」こそが、制限された世界な中で、他の誰でもない自分として、生きるヒントとして、私にとっての希望として、悠々と輝いてくれる気がしてならないのだ。
でも残念なことに私にはまだそれが何か分からない。

音楽だけは続けなければならない。そんな言葉を絞り出したそのアーティストにとって、音楽というのはおそらく自分を自分として位置付ける不動の、唯一のものだと思う。
おそらく覚悟の話題だけで2人を並べれば、神谷もこのアーティスも、同じだけの覚悟を持っている。
このアーティストにとっての音楽とは、間違いなく神谷にとってのお笑いである。
お笑いだけは続けなければならない。
たとえ芸人を引退したとしても、彼は生きている限りお笑いを追求するのだろう。
神谷は生まれた瞬間から芸人であり、おそらく死ぬその時まで芸人である。
棺桶に花を添えようとしたら、死装束がウェディングドレスだった、なんてことがありかねない。

火花のエンディングはとても素敵だった。
旅館の露天風呂で、素っ裸で月の光を浴びながら徳永と2人踊るのだ。
あんな胸をしているから大浴場にもいけない。神谷に許された世界は、もはや徳永との空間だけである。「神谷さんはここに存在している。心臓は動いていて、呼吸をし、ここにいる。やかましいほどに全身全霊で生きている。生きている限りバッドエンドはない。僕たちはまだ途中だ。」
徳永の声で流れるナレーションが私にじんわりと響く。

閉鎖されていく空間の中でわたしはどう生きるのか。

最近は焦りが多い。
やりたいことをやれるのは20代までだと、なんとなく圧をかけられている気がするからだ。
実際そうなのだと思うし、そうではないとも思う。
焦ったらM-1で優勝した時の錦鯉を思い出すようにしている。
50になってもあんなふうに顔をぐちゃぐちゃにして泣くことができるのだ。
感情にも個性にも枯渇はない。
徳永の言うように、私もまだまだ途中なのだ。

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