荻窪随想録19・丸山橋から美濃山橋まで――善福寺川を遡上・続き――
後日、中途挫折した丸山橋から、善福寺川の川べりの道を、改めて川上に向かってみた。
その丸山橋までは、以前、途中で西荻の駅に向かって方向転換した時に通った道を、そのまんま反対にたどり直した――駅を出たら荻窪方向に少し戻って、材木屋さんのある四つ角で左に曲がる――住宅街を抜けて10分くらい。普通に歩いていけば、源泉のある善福寺公園には数十分で着くのでなんだかばかばかしいことをしているような気もしたが、やっぱり川に沿って歩いていったらどんな気持ちがするか、というのがあったので。
丸山橋のそばの川沿いの柵に取りつけられた里程標が示す、源泉までの数字は2.2キロ。1キロ歩くのに自分が必要とする時間をまだつかんでいなかったものの、まあ大した距離じゃないはずだしいいか、と思った。
歩き始めたらすぐ、古びた佇まいの山下橋に出会った。このあたり、川の両側は年を経て黒ずんだコンクリの護岸で、水際もなんだか年季のいったコンクリ造り。川床にはやはり緑の細長い草がところどころ生えていて――これはどうやら、ナガエミクリ(長柄実栗)という名の水草らしい――流れのままになびいているが、水の勢いのあまりないところでは、水面すれすれに張りつくように緑色の葉を寝かせているだけなので、揺らぎもしないその姿はなんだか別の植物のようにも見える。
次の関根橋は親柱が太くて青く塗ってあり――ちょっとペンキははげていたけれど――欄干には緋鯉と白い鯉とを組み合わせた立体的な飾りがデザインしてあって、そこだけなんだか違う雰囲気。それから駅通(えきどおり)橋、井荻橋、原橋、宿(やどり)橋、と大して違いのなさそうな橋を次々と越えていった。川の両側の道は、中流域のようにかなり細いところもあったが、思いのほか広々としたところも多く、川に沿って立ち並ぶ家も、昔からあったように見える素朴な感じのする一軒家もあれば、6階建てのマンションのようなそっけない集合住宅もあった。
でも、広い空の下を川の両側に屋並みがどこまでも続いている光景――あるいは、左右に家が立ち並んでいる中を、川がどこまでも続いている光景――をしばし立ち止まって橋の上から眺めていると、なんだか心がそそられるものがある。
原寺分(はらてらぶ)橋の手前、川幅が左右から迫り出したコンクリで細く狭められたその左側に、「ある区マップ」で紹介されていた、鍵穴のような形の、今では希少とされる湧き水の出ているところがあった。鍵穴のように見えるのは、貴重な湧水ポイントを保護するためなのかそのぐるりを色の違うコンクリで丸く縁取った上に小石を埋め込んであるからで、そこからさらに川の中央に向かっても、湧き出た水を誘導するかのように、細長い水路をコンクリで形づけてある。
でも私が見た時には特に水は湧いていないようだった。それよりもむしろ、その脇の欠けたところからなにかがしみ出ていて、そのあたりのコンクリが黒く濡れていた。ただ、それがその湧き水なのどうかはよくわからなかった。
その先が耕整橋。ひとつ、小さな名もない橋を通り過ぎた後に出てきた、井荻小学校の手前の橋で、川はそこから先は小学校の敷地内を流れているので、しばらくは川べりを歩くことはできなくなる。ただそれはもう、「ある区マップ」で前もって知っていたので、驚きもしなければがっかりもしなかった。川はそこで左右のみならず、その上までもが鉄枠を組んだ上にかけた金網ですべて覆われていて、その金網には枯れ葉や枯れ枝のようなものがまとわりついたままになっていた。鉄枠には錆びが出ているし、荒れ果てた景観のようにも見えたが、緑の季節になれば、ここは藤の花が咲き誇って全然違う感じになるのらしい。でも、私はそのような侘びた風情が好きなので、そのままでもまったくかまわなかった。
左右どちらにも迂回できたところ、右の迂回路を取って歩き続けた。
金網は、次の寺分(てらぶ)橋まで行くまでもなく、小学校の敷地が終わるのとともに途中で終わっていた。寺分橋にたどり着いてふり返ってそのようすを確認してから、また川べりの道に戻った。
そこから先は、浅い川の底に、なんだか謎の大きな丸い輪っかがいくつも並んで設置してあった。なんのためにあるものだか、さっぱりわからなかった。後で調べてみて、どうやら、植物を植えるための養生枠と呼ばれるものであるらしいことがわかったが――枠の中に植えれば、種や苗が水に流されてしまうのを防げるのらしい――そもそも私には川床に人の手で植物を植え込むという発想がなかったし、冬のさなかのせいか、輪っかの中になにかがあるようにも見えなかったので、ふしぎなものを見る思いでそれらを見下ろしながら歩いていった。緑のナガエミクリが、輪っかの周りを取り巻いて流れになびいていた。
そして、次の新町橋という橋を過ぎた頃から、なんだか川床に生えている草が立ってきたのに気づいた。川がより浅くなったのか、それとも流れに勢いがなくなったからなのか、緑の葉が水面から突き出て上に向かって伸びている。
予感がした。もしや、と思ったら、突然目の前に、すすきの群生のようなものが現れた。すでに葉も茎も枯れて薄茶色になっていたけれど、浅い水の中から川べりの柵に届きそうな高さにまで伸びている。そのひょろ長い茎の先には、開いた浅黄色の穂綿が風に吹かれて揺れていた。
これこそ善福寺川の川べりにかつて生えていたという荻では、と思い、勢い込んで柵の土台に足をかけ、身を乗り出して見ていたら、ちょうどそのあたりに住んでいるらしい年輩の女の人が、ゆっくりと歩いてくるのが見えた。
それで、
「これは、荻ですよね?」
と話しかけてみたところ、その人はあまり川の中の草には関心を持ったことがなかったのか、
「え? ああ、そうね」
というおぼつかない返事だったので、
「荻窪にはこんなに生えているところはないんですけど。私が子どもの頃にはあったのかもしれないんだけど。こんなところでこんなに見られるなんて」
と喜んで続けたら、
「私は子どもの時からはここにはいないけど……でも、ここももう住んで長いから……」
と言いつつも、それが荻という植物かは確信は持てないようで、ただ、しばしいっしょに二人でその2メートル以上はあろうかと思われる丈高い草を見つめていた。乾いた味わいながらも、時折り風にそよいでさやさやという音もした。
そうしているうちに、
「こういうことが好きなのね?」
とほほえみながらこちらを向いて聞かれたので、
「ええ! 川伝いに歩くのが」
と即答してから、あれ、いつそういうことになったんだっけ、と自分で思った。
と、ここで話を終えられればよかった。でも、残念ながらそうはいかなかった。
その話は少し後に回すとして、その荻と思われるものの群生はしばらく川の中を続き、それが途切れた後に、もう一つ、八幡西(やはたにし)橋という橋が出てきた。その向こうには曲がりくねった川の先に、すでに善福寺公園のものらしい高い木々の梢が見えていた。
それで、そこに来てまたも川幅が急激に狭まり、きわめて細い水路のようになったのを眼下に見ながら――これはこれで、周りがコンクリで固めてあっても川の両脇に緑の草が生い茂って水も澄んで見えたので、自分には春の小川のようなイメージに思えた――軽やかな気持ちで歩き続けた。そして、すでに一度来たことのある美農山橋に到達し、ようやく善福寺川を上り終えた。
小一時間もかからなかった。途中で筋肉痛が起こる、というようなことにもならなかったし、初日のあのたった2キロ半で中断せざるを得なかったのはなんだったのだろうか、と思った。でも、あの日は上り始める前にもあちこち荻窪を散歩などしていたから、そのせいもあったのかもしれない。
そしてこの日は、そうやって美農山橋までたどり着いた後は、源泉の遅野井の滝をふたたび見に行くようなことはもうせずに、西荻の駅に足を向けた。最後の最後で荻の群生を見つけて、すっかり満足していた。養生枠がなにかもわかっていなかったから、川の中に自然に生えたものだと思っていた。
しばし下の池の前のベンチに座ってぼんやりと池を眺めた後、遅野井の滝を見に来た時に覚えたばかりの道をたどって、西荻の駅に戻った。
それからしばらくしてのことだった。私が荻だと思っていたものは荻でないのがわかった。似たような植物である葦だった。
どうしてわかったのかというと、植物に詳しいという人に、水の中から直接生えているすすきのようなものなら葦で、荻は同じくすすきのような見た目でも、水の中からではなく水辺の「陸地」に生えるもの、と教わったからだ。
それに、善福寺池や善福寺川の上流付近について書いてあるものを読むと、どれもこれも葦(か、せいぜいで葦と真菰)が生えている、としか書いていない。荻も交ざっている、と書いてあるものもそのうちひとつだけは見つけたけれど、基本的には善福寺池近辺に昔から繁殖しているものは「葦」であるとされていた。沼地のような湿地帯だったということなので、水の中に生えるという葦にとって、とても茂りやすい環境だったのだろう。特に下の池のあたりがすごかった、ということで、だから、私が最初に下の池に来た時に荻かと思った、池の中ほどにかたまって生えているすすきのようなものも葦だったのだ。
さらに、荻だと思い込んでいたその植物の群生をもう一度見たくて、上流沿いの道を改めてたどり直してみた時に、井荻小学校の手前で今度は左の迂回路を取ったところ、井荻の小学校のフェンスに創立70周年を記念して作られたという絵地図が掲げてあって、そこに、近年まで丸山橋よりも下流の一角に荻が自生していた、と紹介してあった。その荻を、かつて区内の数十の小中学校に移植したことがあるのだそうだ。
そこまで詳しく書いてあるのなら、そしてやはり荻がそんなに珍しいものならば、新町橋と八幡西橋との間の川の中に群がって生えているものがもし荻だったとして、そこで紹介されていないはずがなかった。それだけ見事にたくさん生えていた。
それで、それらのことを考え合わせて、あれは荻ではなく葦だったのだ、と判断がついたのだけれど、もし冬ではなくて葉も茎もまだ元気いっぱいの緑の頃に来れば、私にもその生え方や葉のようすから、どうも荻ではなさそうだ、ということぐらいはわかったのだろうか。
でも、それでもすぐには葦には結びつかなかったと思う。なぜかというと、私は葦にも花穂がつくということを知らなかったのだ。葦とは、それこそ水中のナガエミクリのように、風の向くままにあっちこっちになびく、ただの細長いだけの草かと思っていた。
なんだかすごく勝手な思い込みだったのだけど。
そして、そのような絵地図を掲げてある井荻小の小学生たちが、金網で遠ざけられるようになってしまった川に自ら近づくことを始め、自分たちで川の清掃をしたり、川とのつき合い方を周りに啓蒙したりする活動をしていることも後から知った。私が興味を持てずに通り過ぎた、上の池と下の池とをつなぐ水路も、井荻の子どもたちが遊べる水辺がほしいということで行政に働きかけ、水に親しめるように整備され直したものだということだ。
たった一駅離れただけのところのことだというのに、なんと知らないことばかりなのか。でも、実際にはきっと、自分の町のことだって知らずにいることばかりだろう。そして知らないでいるうちに、いつの間にか町の様相が思わぬ方向に変わっていく。
でも、だとすると、やはりこの辺ではもう自然に生えている荻に出会えるなんてことはないのだろう。荻窪駅の北口や、読書の森公園などに、保護のために荻が植えられていることは知っているけれど、それよりももっと野生を感じさせる荻に出会ってみたかった。
同じ「note」には、変わりゆく石神井について綴っている人がいて、その人によると石神井池の畔には荻が生えている、ということなので、まとまった荻が見たければ石神井公園まで行くしかないのか――それもいいけど、変わってしまった石神井を目の当たりにするのが怖い――と思っていたところ、思いがけずもっと近くで荻の群生に出会えた、と喜んでいたのに見事な勘違いだった。
たぶん、川の中に植物を植える枠が作ってあったぐらいなのだから、あの葦もある時期に誰かの手によって植えられたものなのだろう。川の中にまで植物を植えるなんて、自分には思いもよらなかった。
どのみち、荻も葦もよく知らずに来た私なのだから、なにもそんなに荻にこだわらなくてもいいような気もするけれど、でも、荻窪生まれであることも手伝ってか、いったん気になり出すととても気になってしまう。
一度、たくさんの荻が生えているところを見てみたい。それもできれば善福寺川の川べりで、などと願うのはあまりにも無理な話で、時間を遡らなければかなえられない夢だ。
【追記】2024/03/17
すみません、また文中に間違いがありました(本文は、すでに修正ずみです)。
井荻小のフェンスに掲げてある絵地図は、生徒たちの作品ではなくて、井荻小の創立70周年時の、「創立70周年記念事業実行委員会」(地域や保護者さんの代表によるもの)が作成したものでした。絵は、どうやら図工の先生(木下朗先生)が描いたようですね。
タイトルが「たんけんはっけんわたしたちの町」となっていたから、勘違いしてしまいました。すごく見事なもので、てっきり生徒たちの手によるものだと思い込んでいた。申し訳ありませんでした。
しかし、どうしてこう私は思い込みが多いのか……もう直らないのかな……。
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