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【小説】招き男 #5 漆原かな子

スカーフが欲しかったわけじゃない。
別になにかが欲しかったわけじゃない。

彼に子供が生まれたことを知った。

頭がおかしくなるから、見たら頭がおかしくなるから、SNSなんてこの一年、チェックするのをやめていたのに…

やめたままにしておくべきだった。
彼の人生はもう、私とは全く関係のないもの。
二本の線が、交差する一点を過ぎたら、あとはどんどん離れていくように、彼と私も、ただ離れて離れて、見えなくなるのを待つしかないと思っていた。
それなのに、頭の中で、やめなさいという声を確実に聞いたのに、彼のインスタのアカウント名を入力している自分がいた。

赤ちゃんを抱いて、彼はこちらに笑顔を向けていた。
その隣に寄り添うように、女性が、彼の腕の中の赤ちゃんを見つめている。
産後間もないのに、彼女の服装や髪型からは、生活感らしいものは一切感じられない。南青山のカフェで打ち合わせをしているところを撮った写真だと言われても、違和感を感じないだろう。
ただ、赤ちゃんを見つめる彼女のいつくしむような眼差しから、彼女の母性を強く感じずにはいられなかった。

どす黒いなにかに、目の前を覆われたような気がした。

そのままじっとしていたら、そのどす黒いなにかに取り込まれてしまいそうで、それを振り切るように立ち上がった。

出かけよう。
そう決めて、クローゼットの奥の紙袋に手を伸ばした。去年の誕生日に、母親がプレゼントしてくれたカットソーとスカート。女性らしいラインのそれらは、自分の好みとは合わなかったから、紙袋に入れたまま、ロングコートの下の隙間に押し込んで、そのままになっていた。
それらに着替え、太めのベルトを腰に回し、コートを羽織り、ショルダーバッグを肩に掛け、そして最後に眼鏡を外した。

なんとなく新宿で電車を降りて、なんとなく歩いていた。
新宿三丁目の交差点に立って、このまま行くと新宿御苑だなと思いながら、そうではない方向に足が向いた。

左手に伊勢丹。歩きながら、見るともなしにショーウインドウを見ていた。
こんな方から伊勢丹に来たことなかったな、と思ったら入口が現れて、こんな方から入ったことなかったな、と思ったらドアを押して入っていた。

そこは ”いつもの伊勢丹” ではなかった。いつもとは違う入り口を選んだら、いくつもあるパラレルワールドの中から、いつもとは違う現実にたどり着いた、そんな感じがした。

とはいえ、違う世界を垣間見る時のような高揚感があったわけではない。それよりはむしろ、いつもとは違う景色を目に映すことによって、目の前の現実を一瞬だけ差し替える、そんな、その場しのぎの感覚だった。


三年前の夏、お盆休みが終わる最終日、彼は言った。

「もう会社には戻りたくない。戻れない」

入社当時から、彼は上司とも同僚ともうまくいっていなかった。
能力の高い人ではあったけれど、そのぶん尊大で傲慢なところがあった。肥大化した自我を持て余しては、自分自身に対して、自分の能力を認めようとしない他人に対して、いつも苛立っていた。

私と彼は、中学生の時に出会って、恋をして、それからずっと一緒だった。思春期から大人になるその過程を、隣で一緒に眺めながら年月を重ねた。私が一刻も早く大人になりたいと思う一方で、彼には、大人になることをいつまでも先延ばしにしたがるような、幼さと臆病さがあった。

でも、否応なしに、私たちは大人にならざるを得なかった。大学を卒業後、彼は小さなホームページ制作会社に入社した。
「俺はこんなところで終わらない」それが彼の口癖だった。
給料の大半を、起業塾やビジネスセミナーの受講料に費やした。

社会人になって一年もしない頃だろうか、「理想のメンターを見つけた」と言ったと思ったら、その瞬間から、そのメンターとやらをコピーし始めた。彼が新しく入会したビジネスコミュニティのリーダーが、そのメンターだった。メンターの動画を何度も繰り返し観ては、話し方や身振り手振り、視線の上げ下げから咳の仕方まで、完全にコピーした。
三ヶ月もしないうちに彼は、ビジネスに関して一通りのことは、メンターの言うことそのままに、メンターの話し方そのままに、語って聞かせることができるまでになっていた。

そして彼は言った。
「もう会社には戻りたくない。戻れない」
実際彼は、戻らなかった。そして夏が終わらないうちに、メンターと同じ、コミュニティビジネスを始めた。

最初は、入会者が十人にも満たなかった。好きなことで稼げるようになる、副業で月収プラス50万、そんなよくある謳い文句を掲げて、お金の稼ぎ方を教える、それがコミュニティの趣旨ではあったけれど、入会者が、入会後まずやることは、ビジネスのお勉強、そんなことではなかった。

彼は、コミュニティのことを聖域と呼んだ。
「ここはあなたにとって、みなさんにとっての聖域なのですから、何を言っても大丈夫。誰にも言えず、胸のうちにずっと抑え込んできたことを解放しましょう」
そう言って、入会した者に、過去のトラウマ、劣等感や無価値観、人生がうまくいかないことへの苛立ち、死にたいという叫び、殺してやりたいという憎悪、そういった胸のうちを洗いざらい吐露させた。その上で、メンターからコピーしたセリフを、メンターからコピーした話し方そのままに、入会者に言って聞かせた。
最初はそれに抵抗を示す者もいた。けれど、聖域での自己開示は、それまで感じたことがないような解放感をもたらし、恥部を見せ合った者同士の結束感を増す。結果、コミュニティの長である彼への信頼感、信奉感を揺るぎないものとさせた。

二年もしないうちに入会者は三百人を超えた。
ちょうどその頃、彼がこんなことを言った。

他所よそでセックスがしたい」

私たちは、彼が起業して間もない頃に、籍を入れて夫婦になっていた。中学の頃からずっと一緒にいて、この先もずっと一緒にいる、そう当たり前に思っていた。だから、彼が「これ出そうよ」と婚姻届を持ってきた時も、なにも考えずに判を押した。

セックスの最中、彼がうまくできなくなることがよくあった。私はそれを、仕事が忙しいせいだと思っていた。
でも彼の答えは違っていた。
そして言った。
他所よそでセックスがしたい」

それは、若い男性なら当然の願望だったのかもしれない。中学生の頃から、同じ相手と同じことをしていたのだから、性的な好奇心が、それで満足しきれなくなっていたことも理解できた。

私は、彼が私以外の女性とセックスをすることに同意した。
彼は言った。
「他の女性とセックスしたからといって、僕たちの関係はなにも変わらない。僕はかな子のことを愛してる。それは、これまでもこの先も、なにがあっても変わらない」
私は彼のその言葉を信じた。

他人からは理解されないことだっただろう。
でも、「一緒にいる」、これを選択肢の一つとしてテーブルの上に並べることさえ、私たちは考えもしなかった。それは「当たり前」のことであって、選択肢にすらならなかった。だから、その逆の「別れる」という選択肢も生まれる余地がなかった。

そして、もし私が、彼が他の女性とセックスをすることを許さなかった場合にどうなるか、私は充分に予想できていた。彼はきっと、自分を止められなかっただろう。もしかしたら、止める努力すらしなかったかもしれない。そして、事が済んでしまってから私に言うのだ。
「僕はかな子に謝らなければならない」と。
同意してもしなくても、結果は同じになることが、私にはわかっていた。
彼は私に母性を求めることに慣れすぎていたし、私もそういう彼を受け入れることに慣れすぎていた。
そして彼は、私がそれに同意することを、最初から知っていた。

見る人が見たら、彼のコミュニティは宗教のようなものだっただろう。長である彼を、カリスマのように見立て、憧れ、信者のように彼を信奉する者も少なくなかった。彼の妻である私に、羨望の眼差しを向ける女性もいれば、嫉妬の視線を投げつける女性もいた。
彼は、妻がいながらも、好きな女性と好きな時にセックスをする、そんな性的に自由なライフスタイルを、自分の魅力の一つとして押し出した。そして私は、それに理解を示し、夫が男性として魅力的であることこそ自分の望みであり、それこそが真の愛情であるというようなことを、彼と一緒になって入会者に話して聞かせた。
陰口が耳に入ることもあった。
「奥さん、口ではあんなこと言ってるけど、本当に信じてるのかしら。なんか、かわいそう。いつか捨てられるわよ」

私は、自信があったのだ。
彼と私は特別。
彼はどんなことがあろうと私を愛している。それはなにがあっても変わらない。私たちは真の愛情で結ばれている。
セックスでなにかが変わるわけではない。

なぜあの時、あんなふうに強く無邪気に信じることができたのだろう。今となっては、私こそが、すっかり彼の信者になってしまっていたのかもしれないとすら思う。

「いつか捨てられるわよ」
その言葉が現実となるのに、時間はかからなかった。

「好きな人ができた」
一年前、彼からそう告げられた時、なにをどう感じたのか、どう感じればよかったのか、あの時のことを思い出すと、いまだに胸の奥が縮こまって深く沈んでいくような感覚になる。

裏切られた。
信じてたのに。

そう思う一方で、ずっとズレたままになっていたなにかが、カチッとはまった感覚があった。
恐れていたことが現実になった。そう認識した途端、カチッという音が聞こえた。
彼の気持ちが別の女性に行ってしまうのではないか、私とではなく別の女性と一緒にいたいと欲するのではないか、そういった不安や恐怖に気づかないふりをしていただけ。それらに気づくことを徹底的に拒否していただけ。

ただ、「私たちは特別」、そう心底信じていたのも真実だった。
だからこそ、特別ではなかったという絶望は大きく、もがき苦しむほどの悲しみで胸が潰れた。

彼は私に、別れてくれとは言わなかった。
「かな子のことを愛している。離れるなんて考えられない。でも、彼女のことを好きになってしまった。彼女を失いたくない」
と、支離滅裂なことを言った。

私はそれでも、その瞬間もまだ、「私たちは特別」とどこかで信じていたのかもしれない。悲しみに打ちひしがれながらも、なにも言わず、ただ彼を見つめていた。

彼は言った。
「三人で住むのはどうかな」

彼はもともと、人一倍自分の欲求に忠実で、それによって相手が我慢しなければいけなかったり、彼に一方的に合わせなければいけなかったとしても、そしてそのことに対して彼が良心の呵責を感じたとしても、それでも結局は自分の欲求を何よりも優先する身勝手さを持っていた。そしていつも、それを許してくれる相手を選んで、自分の周りに置いていた。
だから、その時も彼は、いつものように結局は、私が彼の我儘を許すことを期待していたのだろう。それがどれだけ常軌を逸したことであったとしても。

「別れよ」
私は言った。

中学の頃からずっと、私たちの関係は ”聖域” だった。
それは彼と私、二人だけのものであり、そこに別の女性が入ってくるなんてこと、考えもしなかった。
彼が他所で誰とセックスしていようが、聖域だけは守られている、そう信じることが、私の拠り所だった。
でも彼は、そこにその女を入れて、三人にしたいというのだ。
もはやそれは聖域ではない。

離婚届を手に、家を出る時、彼は泣いていた。
私に抱きつくようにして、「ごめんね」と繰り返しながら、子供のように声をあげて泣いた。

翌日、彼は彼女と結婚した。

駅のホームのベンチに座っていた。
何駅だったかも覚えていない。
気がついたら、そこに座っていた。

目の前を、電車が何本も行き過ぎる。
こんなところにずっと座っていちゃいけない、そう思うのだけれど、腰を上げることができない。
またそこから何本も電車が行き過ぎる。

ふと、ベンチの自分と反対側の端に、私と同じようにずっと座っている男性がいることに気がついた。私と彼の間は、座席三つ分空いている。
いつからいるの?
いったん気になりだすと、気になる。
ちらっと男性を盗み見る。
彼と目が合った。びっくりして慌てて目を逸らす。

もういい加減帰らなきゃ、そう思って、バッグの持ち手をぎゅっと握り締める。
ホームに電車が入ってくる。
「帰るの?」
と聞こえたような気がして、え?と男性の方を見た。

「帰っちゃうの?」

帰る…

私は一体どこに帰るというのだろう。

電車のドアから人が塊になって出てくる。
バッグの持ち手を握る指は、緩んでいた。

「もう三時間近くもそうやってるよ」

男性の声に、慌てて彼の方を見遣った。

「三時間?」

「うん。さすがに心配になったよ」

私は腕時計を確認した。もうすぐ四時。
家を出たのが確か三時過ぎだったから…

男性は、小さくなって行く電車の最後尾を目で追いかけるように上半身を前に傾けて、そのままの姿勢で私に視線を移して笑った。

「びっくりした?」

なんて綺麗な笑顔なんだろう、そう思った。

「用事もなにもないから、時間なんてどうだっていいけど」
私は言った。

「大丈夫?記憶喪失とかなってない?」
前かがみのまま、両手の肘を太ももに置いて、下からすくい上げるように私を見る。

「大丈夫」

大丈夫なんかじゃない。全然大丈夫なんかじゃない。

「なんか動けなくて。いったん立ち上がったら、元いた現実に戻らなきゃいけない、そう思ったら動けなくなっちゃった」

「戻りたくないの?」

「戻りたくない」

私と別れた翌日に、彼があの女と結婚するような現実、戻りたくない。

「じゃあ僕と一緒に来る?」
男性が言った。

たとえ彼が私の手を引いて、ホームの下に引きずり込む悪魔だったとしても、その時の私は抵抗しなかっただろう。


いつもとは違う入り口から入る伊勢丹。すぐ目の前がエルメスだった。

店内は、静かだった。
充分に余裕のある空間を歩いていると、思わず鏡に目を止めた。そこにいるのが自分だとは一瞬思えなかった。
いつもの自分とは全くテイストの違う服。フラットシューズの代わりに、パンプスを履いている。
なんで出がけに、眼鏡を外したんだろう。

彼の隣で赤ちゃんを見つめる、彼女の長い睫毛を思い出していた。
初めて見た彼女は、とても美しい人だった。

どす黒いなにかに、目の前を覆われた気がした。

それから目を逸らすように、壁や天井を流れる光のラインを辿ると、スカーフが目に止まった。
朱色の枠で囲われた真ん中に、鳥籠が描かれている。その入り口は開け放たれていて、四方に色鮮やかな鳥が舞っている。

「赤ちゃんが欲しい」

そう何度か彼に言ったことがある。

その度に彼は、

「子供はいらない。欲しくない」
と言って、まともに取り合ってくれなかった。

彼が望むから他所の女を抱くことを許して、彼が望まないから子供はあきらめて、そうやって必死で聖域を守ってきたのに、あの女は、ああして彼の隣で美しい女をやりながら、母親にまでなっている。

彼の腕の中で眠る赤ちゃんが、スカーフに包まれる。
鳥のくちばしやら羽が、赤ちゃんをくすぐる。
ドレープが幾重にも重なって、赤ちゃんの目や口を覆う。
赤ちゃんの泣き声を聞いたような気がして、私はぎゅっと目を閉じた。


#創作大賞2022

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