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【小説】招き男 #3 高城咲

アパートの兄の部屋。
ドアを開けて、一歩足を踏み入れると、目の前にはいつもの光景が広がっていた。
急いで目をそらすように、後ろを向いてドアを閉める。
背中に ”兄のいない部屋” を感じる。

振り返って、六畳一間を見渡す。
中途半端に開けられたカーテンも、部屋の隅に脱ぎ捨てられたティーシャツも、皿の上に残る食べかけのコロッケも、あの日のまま。

正面にある窓から入る西日が、床を染めている。
靴を脱いで、数歩進んで、床のオレンジに足を踏み入れる。
それより一瞬早く、オレンジの方がすっと忍び寄って来て、つま先を捉えたような気がして、一瞬立ちすくむ。

この部屋全部、丸ごと全て、あの日以来、時が止まったみたいにひっそりとしている。

兄のベッドの足元で、紫色のシュシュが、この部屋で唯一息遣いをする生き物のように、私をじっと見ている。

あの日、なにげなく枕の下に手を差し込んだ時、指に触れたのがこのシュシュだった。

「これ、女の?」
人差し指にシュシュを通して、私に背を向けて横たわる兄の眼前に持っていった。

のぞきこむと、兄は目をつぶっている。

「お兄ちゃん、これから仕事?」

「これから夜、なにするの?」

「泊まっていってもいい?」

兄はなにも答えない。
ただ、目を閉じている。
目を閉じて、私がいなくなるのを待っている。

幼い頃からそうだった。
答えたくないのか、答える必要がないと思っているのか、兄は私の問いかけに、なにも返さないことがよくあった。

背中を向けたり、そっぽを向いたり、そうやって私を無視した。

そのたびに、自分の口から出た言葉が、宙に浮いたままどこにも行けなくて、ついには自らの重みに耐えられなくなったように下に沈んでいく、そんな感じがした。

一番嫌だったのは、兄が私の目をじっと見ながら、私の問いかけに答えない時。
向かい合わせで座っているのに、真正面から私を見ているのに、私がなにか聞いても、兄は無反応でいることがあった。
目をそらすでもなく、言い訳めいた笑みを浮かべるでもなく、ただじっと私を見ながら黙っているのだ。

中学生にもなると、兄のその様子に、気味の悪さを感じるようになった。
ものすごく腹が立って、「お兄ちゃん聞いてる?」と詰め寄ることもあった。
すると兄は、スリープモードから解除されたパソコンみたいに、一瞬まばたきをしたかと思うと、音もなく、すっといなくなってしまう。

「紫のシュシュって、なんか安っぽい」
私は兄の背中に、もたれかかって言った。

兄は目をつぶったままだ。

「お兄ちゃん、このシュシュの女のこと、好きなの?」

答えなんて返ってくるわけがない。

お兄ちゃん、どこ行くの?
お兄ちゃん、明日は一緒にいてくれるの?
お兄ちゃん、お母さんいつ帰ってくるの?
お兄ちゃん、なにか食べるものないの?
お兄ちゃん、なんで無視するの?

私の言葉はいつも、宙に漂って、そして沈んでいった。

「ああ」
兄のくぐもった声が耳に届いた。

答えなんて返ってこないと思ったから聞いたのに…

「へえ。こんな安っぽいシュシュをする女が好きなんだ。シュシュを男の枕の下にしのばせて帰るなんて、いやらしい女」
私はシュシュを壁に投げつけた。

そして背中を向けたままの兄の左肩に手をかけて、覆いかぶさるように体重を乗せた。
「お兄ちゃん」

兄は目を閉じて、眉根をぐっと寄せていた。
無言で不快感に耐えるように、頬の筋肉を強張らせて、じっと動かないでいる。

「お兄ちゃん」
裸の胸を兄の背中に押し付ける。
左足を兄の腰に絡める。

抵抗するように兄が左肩を揺らす。
ほどくまいと腕と足に力を込めれば込めるほど、荒々しい不安感が押し寄せる。

「お兄ちゃん、私を置いてくの?」
必死で兄の背中にしがみついた。

「お兄ちゃん、置いてかないで」

「離せよ」

兄の低い声を聞いたと思った次の瞬間には、私は床に転がっていた。

唖然とする私に、ベッドの上の服を放って寄越して、兄は言った。

「もう二度とここには来るな」

「その女、お兄ちゃんと私のこと、知ってるの?」

そう言う私に、珍しく感情のこもった視線を投げつけて、兄はもう一度言った。

「もう来るな」

兄のその感情がなんだったのか、私には読み取れなかった。

そういえば、あの日もちょうどこれぐらいの時間だった。
わざとゆっくり服を着て、部屋を出てドアを閉める瞬間、ベッドの縁に腰掛けた兄に目をやると、窓から入り込んだ西日が、兄の頬に影を落として、表情をわからなくさせていた。

あれから数時間後、兄は事故で亡くなった。
人通りの少ない脇道の十字路で、兄の自転車をワンボックスカーが跳ね上げた。地面に頭を強く打ち付けて、ほぼ即死の状態だったという。


コートを着たまま、兄の布団にもぐり込む。
凍ったようなシーツの冷たさに、体が固くちぢこまる。

兄が、私に向き合って横になることは、一度もなかった。
いつだって私に背を向けて、たとえ寝入ってしまったとしても、寝返りを打ってこちらを向くことすらなかった。
かたくなに私と向き合うことを拒否しているような兄の背中に、手の平を当てて寄り添って、兄の体温が流れてくるのを感じていた。

目を開けると、部屋の中は暗くなっていた。
時計を見ると、眠ってしまったのはほんの十五分ほどだった。
さっきまで床を這っていた西日の代わりに、淡い闇が部屋全体に漂っている。

寒さで歯の根が合わない。
ベッドの縁に腰をかける。
床の冷たさが、つま先から這い上がってくる。

子供の頃、兄と二人で膝を抱えて震えていた。
「お兄ちゃん寒いよ」
兄の横に擦り寄ると、兄は片手で私の肩を抱いて、二、三回さすったあと、すぐまたその手を元に戻して、膝を抱えて震えた。
私は、ほんの数回撫でられた肩の温もりが恋しくて、何度となく
「お兄ちゃん寒いよ」
とうったえた。
兄が再び肩をさすってくれることはなかった。
兄はただ、一点を見つめて、ぶるぶると震えていた。

立ち上がり、部屋の電気を点けた。

部屋を見渡して思った。
全部捨てよ。

どこを探してもゴミ袋が見つからない。
部屋中に染み渡る寒さから逃げ出す口実を見つけた気がして、そそくさと靴を履いてコンビニに向かった。

コンビニへの道すがら、それとは反対方向が気になった。
兄が亡くなった事故現場。

お兄ちゃん、コンビニはこっちだよ。
いったいどこに行こうとしてたの?
紫のシュシュの女のとこ?

事故現場を背中に感じながら、そこから遠ざかるように早足でコンビニに向かった。

コンビニに飛び込むと、温かい空気に包まれて、握りしめていた指が一瞬ふわっと緩んだ。
陳列棚の間を歩く。
目の前には、お菓子が並んでいる。
チョコレートの細長い箱を手に取ると、コートの袖の中に滑り込ませた。

隣の通路に向かう。
次はボールペン。スライドさせて袖の中に収める。

これも行けるかなと、旅行用のボディーソープを手に取る。

「それはちょっと大きすぎるんじゃないかな」

その声に振り向くと、男が後ろに立っていた。

どう見ても店員ではない。
無視して通路を歩く。

アイスクリームの入った冷凍庫を覗き込む。
隣にさっきの男がやって来て言った。
「店を出る前に、その袖の中のもの、置いてったほうがいいよ」

「あなたに関係ないでしょ」

「君がやったこと、気づいてるよ」
男は顎で、レジの方を示した。

慌ててそちらの方を盗み見る。
二人の店員と目が合った。

「冬に食べるアイスって、高いのほどおいしいよね」

男はハーゲンダッツを手にして言う。

「きみはなに味が好き?」

「クッキーアンドクリーム」

「うん、おいしいよね」
男が言う。

「あなたは?なに味が好きなの?」

「僕?これかな」
そういって男は、ガリガリ君を手にとって見せた。

「やっす」
私は笑った。

レジの店員を見る。
私を見て、なにやらささやき合っている。
いったん腕を持ち上げて見せてから、アイスクリームの山の上に、袖の中のチョコレートの箱とボールペンを落とした。

「この近くに兄のアパートがあるんだけど、一緒に来る?」

「いいよ」
男はそう言うと、クッキーアンドクリームを一つ持って、レジに向かった。


部屋に入ると男が言った。

「お兄さんは?」

「一週間前に死んだの」

「そっか」
男は表情を変えることなくそう言うと、

「これ今食べる?」
とコンビニの袋を振って見せた。

「あとにする。そこの冷蔵庫に入れといて」

ストーブを点ける。

「部屋があったまるまで時間かかるから、コート脱がない方がいいよ」

「この部屋、きみも住んでるの?」

「ううん。部屋を引き払う前に、色々片付けないといけないから」

その瞬間、ゴミ袋を買うのを忘れたことに気がついた。

なんだかどうでもよくなった。
この部屋を、このままとっておきたい、そんな気がした。

「僕に片付けを手伝わせようと思ったの?」
男がからかうような表情で言う。

「それもいいかな」

本当は、一人でこの部屋に帰りたくなかっただけ。

ベッドの足元。シュシュの紫が目に入った。
とっさにそれを拾って、枕の下に押し込んだ。
この男にそれを見られたら、兄と私のことがバレてしまうような気がした。

ゴミ袋がないから、このシュシュを捨てることもできない。

無性に腹が立ってきた。

ずっとこうやってお兄ちゃんの枕の下にいるつもり?

お兄ちゃん、なんで私を置いてったの?

二人で膝を抱えて震えていたあの頃からずっと、私は死んじゃいたいと思ってるんだよ。
お兄ちゃん、それ知ってたよね。

私にはお兄ちゃんしかいない。
せめてそう思いたかった。
でも、私にはお兄ちゃんすらいなかった。
だって、お兄ちゃんもあの頃からずっと、死んじゃいたいって思ってたんだもんね。
すっかり絶望してたんだもんね。

「ねえ、セックスしよ」

男に言った。

男はなにも言わずに私を見ている。

「なにか言ってよ」

もう無視されるのは嫌。

「そんなの本当はしたくないでしょ」

男が言う。

したいかどうかなんて重要じゃなかった。
十三歳の私は既に、この世からいなくなってしまいたいと思ってた。
それはきっと、もっとずっと前から。
死ぬなんてことがまだよくわからない幼い子供の時からずっと、いなくなってしまいたいと思ってた。
母親はほとんど家に戻ってこない。父親は最初からいなかった。
戻って来たかと思ったら、またすぐ出て行ってしまう。
兄と私はいつも、膝を抱えて空腹と寒さに耐えていた。
だから、十三歳の私には、したいかどうかなんて重要じゃなかった。
じっと私を見つめながら、なにも言わない兄。
寒さに震える夜だって、身を寄せ合うことすらしない兄。
幼い時から、もしかしたら生まれたときから、兄も私と同じように絶望していた。
だから私はあの時、十三歳のあの日、兄に飛びついて、覆いかぶさって、兄の服を脱がそうとした。
やり方なんてわからなかった。
ただ夢中で兄の首に鼻を押し付けて、兄の全身をまさぐった。
そこからあとは、兄がしてくれた。
あれから十年以上が経つ。
その十年の間、兄はずっと、私に背を向け続けてきた。
たとえその一瞬前に、私の体の中に入っていたとしても、次の瞬間には背を向けて、私をいないものとして扱った。

「私、お兄ちゃんとセックスしてたの。だから、したいかしたくないかなんて、私にはどうでもいいことなの」

一気にまくしたてるように言った。

男は穏やかな声で言った。

「したいと思ってる女の子とじゃないと、したいと思わないよ」

私はなんて返したらいいのかわからなくて、途方に暮れた。
そして、途方に暮れるなんて感覚、もうずっと感じていないなと思った。
いつも胸がざわざわしていたし、その一方で、感情はとっくに平坦になってしまっていたし、途方に暮れるという間の抜けた感覚は、幼い頃にすっかり失ってしまっていた。

「どうしたらいいのかわからない」

私は言った。

「したい時にしたいことをすればいいんだよ。今、なにかしたいことある?」

「クッキーアンドクリーム」

男性は笑顔を見せると、冷蔵庫からアイスクリームを取って来た。

「両手でこうしてアイスを包んで、少し溶かして食べるとおいしいよ」

男の手の中にすっぽり収まっているクッキーアンドクリーム。

「僕のとこに来ない?」

私はまじまじと男の顔を見た。

「アイスクリーム、好きなだけ食べられる?」

「あっためるのは自分でやってね」
男は両手を開いて、赤くなった指を動かして見せた。

この男は、お兄ちゃんみたいに私の質問を置き去りにしない。


#創作大賞2022

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