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ルールって絶対的じゃないなら、それはもはやカレールー

北京オリンピック、盛り上がってますね。

これ、前回と全く同じ書き出しです。
オリンピック関連のことを書こうとすると、なぜかこれで始めてしまいます。

とりあえずは、タイトルについて説明しておこうと思います。

思いつきでつけたタイトル。
それゆえに、このあとタイトルについて一切触れる機会がありませんので、冒頭で説明を済ませておこうと思います。

カレールーって、カレーのルーってことです。

ボンカレー、ジャワカレー、バーモントカレーのカレーです。

説明以上。


本題に入ります。

長く続く流行病はやりやまいのせいで、世界は疲弊しているけれど、北京の地で、その熱い血をたぎらせ、その身体からだを躍動させ、その心を研ぎ澄ませながらメダルを目指す人たちが、今この瞬間いると思うと、

こんなことで世界は止まれない、
私も止まれない、
止まってはいけない、

と改めて強く思います。


そしてここ数日、アスリートたちの活躍の裏で物議を醸しているのが、フィギュアスケート女子、ワリエワ選手のドーピング問題。

ここでは、詳しい説明は省きますが、ワリエワ選手のドーピング違反が発覚したにも関わらず、CAS=スポーツ仲裁裁判所は、ワリエワ選手がオリンピックに出場し続けることができるという判断を下しました。

それを受け、その判断を強く批判する声や、ワリエワ選手を応援する声など様々な声が、世界各国のアスリートやスポーツ関係者から寄せられています。


この件に関する私の個人的な意見は、こうです。

ダブルスタンダード(二重規範)は許されるべきではない。


どのような事情があれ、守られるべきルールは存在する。

それに例外を認めてしまったら、それにまつわる全てのことが根底から揺らぎ、り所を失ってしまう。

ドーピング違反は、それに該当すると思います。

それは例えば、人を殺してはいけないということと同じ。

そんなひどいことをされたのなら殺しても仕方がないよね、心情的にはそう思うことがあったとしても、だからといって、人を殺していいということにはならない。

事情や相手によって、人を殺しても許される、罰をまぬがれることができるのだとしたら、一度でもそんなことを許してしまったら、そのあとはもう、私たちの足場は、ぐずぐずとぬかるんで、終いには崩れ去ってしまう。


とはいえ私は、ルールだからといってなんでもかんでも守るタイプではありません。

結構守らないタイプかも…

所詮「人の作ったもの」という感覚が、どうしてもあります。

しかも大概は、作った人に都合のいいようにできている。

加えて、ルールというものは、一度できてしまうと変化を拒絶するような硬直性を持っているのが常なので、それを闇雲に守ることに意味を感じないどころか、守る必要性がないとさえ思うことがあります。


以前、ビジネスコミュニティみたいなものに入っていました。

そこにはいくつかルールが存在しました。

そしてそれらのルールは、参加者みんなが安心して活動できるための絶対的なものとして、コミュニティのリーダーが強く標榜するものでした。

ですが、絶対的なもののわりに、それらのルールには「解釈の幅」が存在しました。
そしてその解釈の幅はいつも、リーダーの個人的判断に依存していました。

誰かがルール違反をした。
それがリーダーを慕っている人、リーダーを信者のように崇めている人の場合は、リーダーの解釈によって、その違反はたいしたことではないとされました。

逆に、そんなリーダーから距離を置いている人、リーダーに異議を唱える人に対しては、ルール違反だと糾弾し、コミュニティから追放すると脅しました。

そしてリーダーはそれを、とてもソフトな口調で、どこまでも紳士的な様子で言うのです。

マインドコントロールという言葉がありますが、この世の一部の人間は、他人を操ることに非常にけていて、そしてこの世の一部の人間は、他人から操られることに非常に長けている、それがそのコミュニティの人たちの在り方を見て学んだことでした。


この世には、人間のエゴや欲による、どうでもいいルールが溢れているけれど、その一方で、絶対に破ってはならないルールもある。

そして、その破ってはならないルールが破られた時、それに対する罰は例外なく下される、そこを譲ってはならない。

ワリエワ選手のドーピング問題から、そんなことを思いました。


ふと自分に聞いてみたくなる1000の質問 #19

あなたがルールを一つ定めることができるとします。
それはどんなルールですか?

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