【小説】招き男 #4 ダイニングテーブルの上のカオス
ダイニングを通りかかると、漆原さんが一人で夕飯を食べていた。
「天まりちゃん、もうご飯食べた?」
「いや、まだです」
「ちょうどよかった」
漆原さんはそう言って、食卓の上の紙袋に手を突っ込んだ。
新宿のデパートの紙袋から、次から次に惣菜のパックを取り出す。
「デパ地下で買いすぎちゃった」
食卓の上には、既にたくさんの皿が並んでいる。
ガーリックシュリンプ、アボガドのサラダ、ほうれん草のキッシュ、骨付きラム肉。その上、カニづくし弁当まで。
それらを押しのけるようにして、どんどんパックを並べる。
「漆原さん、一体これ、なん人分ですか。買いすぎちゃったって量じゃないですよこれ」
「全部食べられるわよ、私」
「漆原さん一人で?」
「そうよ」
「いや無理ですよ、こんな量」
「ううん、食べられるから」
漆原さんは、真顔で言う。
漆原さん、一人で食べられるかどうかは、この際どうでもいいことです。
「天まりちゃん、私が一人でこれだけの量を食べられるかどうか、それってそんなに重要?」
だからそれは私が言いたい。
「好きなもの、お皿に出して食べて」
漆原さんが、皿を数枚差し出す。
「デパート混んでました?」
カボチャとナッツのサラダを取り分けながら、私は言った。
「水曜の昼間だからね、それほどでもなかったわよ」
「なに買いに行ったんですか?」
「なにも」
漆原さんの箸の間で、太くて長いカニの身が、弾力を持って揺れる。
「なにも?」
「もしかしたらスカーフ」
「もしかしたら?」
私は笑った。
「もしかしたらってなんですか?言い方、変じゃないですか?」
「そう?」
漆原さんは、ちょっと困った顔をして見せた。
「デザートもあるから」
そう言って漆原さんは、カウンターの上の紙袋に目をやった。
えっ、紙袋三つもある。
惣菜祭りだけかと思ったら、デザートワンダーランドまであったのか。
いったいどうなっているんだ?
「で、スカーフは買ったんですか?」
「うん、買ったわよ」
「あとで見せてくださいよ」
「いいわよ」
「漆原さん、この出汁巻最高。ちょっと食べてみてくださいよ」
「うん、今、カニ」
漆原さんは、二本目の足を食べ終えて、いよいよカニの身を敷き詰めたカニ飯に箸を伸ばしている。
「イクラっている?」
カニ飯に視線を落としたまま漆原さんが言う。
「ああ、じゃあもらいますよ」
「ううん、違うの。カニづくし弁当に、イクラって必要かなと思って。正直、余計だと感じるのよね」
カニ飯の上には、カニの身に加えて、イクラがたっぷり乗っている。
「得したって思う人もいますよきっと」
「私はカニだけで食べたかったの」
じゃあ買わなきゃよかったのでは?
「そういえば、最近、美雪さん見てないな。私、残業続きで帰りが遅かったから、一週間ぐらい顔合わせてないかも。漆原さんは?美雪さんと最近話したりしました?」
「そういえば私も見てないわね。ちょっと前に、向井さんの部屋から出て来たのを見たけど」
そういえば、咲ちゃんもそんなこと言ってたな。
あの晩、咲ちゃんが言った言葉を思い出す。
「だって和真さん、私とセックスしてくれないから」
そして咲ちゃんは私に、向井さんとセックスしたのかと聞いた。
向井さんとは、一度キスをした。
この家にやって来て二ヶ月ほど経った頃だろうか。
玄関の上がり框に腰掛けて、靴を履いていると、背中の方から向井さんの声がした。
「天まりちゃんも出掛けるの?」
ダークグレーのツイードコートを着て、首には黒のカシミヤマフラーを巻いている。
私の隣に腰掛けて、アンクルブーツを履く。
よく手入れされたレザーのそれを見ていたら、隣の自分のスニーカーについた汚れが、急に目立って見えた。
引き戸の中央、ちょうど目線の先にある磨りガラス越しに、庭に積もった雪が見える。
「外、寒そうですね」
「ほんとだね。天まりちゃん、今日はどこ行くの?」
ブーツの紐を結び終えると、向井さんは手袋をはめた。
向井さんの手袋。
黒いレザーにブルーのステッチが入っている。
向井さんの手に、とても馴染んでいるように見える。
それは、そこらへんのレザーの手袋が持ち主の手に馴染む、その程度の当たり前の馴染み感を超えた、向井さんの手が入って初めてレザーが息遣いをして艶めくような、そんな特別な馴染み感に見えた。
「クリスマスプレゼントを買いに、渋谷に」
「一人で?」
「うん、一人で」
「僕も一緒に行こうかな」
「渋谷にですか?」
「こんなふうに雪が積もった寒い日は、天まりちゃんとデートもいいかなと思って」
こういうことをさらっと言って、平気な顔するのがイケメンの特徴。
「ちょっと待っててください」
私は、自分の部屋に引き返し、ナイロンのボディバッグから、レザーのショルダーバッグに中身を入れ替え、ダウンジャケットを脱いで、ウールのコートを羽織った。
そして、小走りで玄関に戻ると、スニーカーを靴箱に戻して、ロングブーツに足を通した。
「デート仕様の天まりちゃん」
向井さんが笑顔を向ける。
「行きましょうか」
私は引き戸を開けた。
買い物をして、カフェでコーヒーを飲んで、楽しい一日だった。
夏に坂谷くんと別れて以来、デートの一つもしていなかった。
坂谷くんのことをずっと引きずっていたし、向井さんの家に来てからは、お気に入りの居間でぬくぬくしてばかりいて、友達に合コンに誘われても断ってばかりいた。
気づけば、あれほど執着していた坂谷くんも、頭の中でぐるぐる回っていた ”坂谷くんの新しい彼女” も、すっかり頭の中からいなくなっていた。
途中、ふと気がついて言った。
「そういえば、向井さん、今日どこかに行こうとしてたんじゃないですか」
「そうだね。どこかの女の子と待ち合わせしてたけど、天まりちゃんとデートすることにしちゃったから」
イケメンの特徴2。
「どこかの女の子」というフレーズが妙にしっくりくる。
「ほんとは待ち合わせなんてしてないでしょ」
私が言うと、向井さんは肩をすくめて、
「うん、してないね」
と笑った。
日が暮れた駅からの帰り道を、向井さんと歩く。
行きに通った時はまだ、道路全体に前の晩に降った雪の名残があったけど、今はすっかり雪が捌けてしまっている。
「家に来てからどう?天まりちゃん、うまく馴染んでるみたいだけど」
向井さんが言った。
「好きですあの家」
雪だるまなのか、ただの歪な雪の塊なのかわからないものが、民家の軒先からこちらを見ている。
「それならよかった」
向井さんは言った。
「あの時はてっきり、キャバ嬢の一員にさせられるのかと思ったけど」
私が冗談めかして言うと、向井さんは、
「警戒してたよね」
と笑った。
「天まりちゃん、コロッケ買っていこうか」
向井さんは、商店街の一番端にある総菜屋を指差した。
いろんな種類のコロッケが、ちょうど五つ入っているパックがあった。
「ちょっとこれ持ってて」
向井さんが手袋を外して言う。
私はそれを、そっと握りしめる。
支払いをする向井さんをぼんやり見つめながら、指先で、レザーの感触を確かめていた。
向井さんに、すっかり馴染んだ手袋。
あの時、テーブルにオニオングラタンスープがこぼれたあの時、布巾を渡すよう、ウエイトレスの前に差し出した向井さんの手の動きを思い出していた。
家に着いて、玄関の引き戸を開ける前、私は言った。
「向井さん、ありがとう」
「なにが?」
「こぼれたスープ、拭いてくれて」
「今更それ言うの?」
向井さんが笑う。
「だって、あの時伝えてなかったから」
「それどころじゃなかったもんね」
向井さんの肩越しに、庭園灯に照らされた南天の木が、雪の重みで少しだけ枝をたゆませているのが見える。
この庭には、昨夜の雪がそのまま残っている。
雪をかぶった南天の赤い実。居間のソファに座って、障子の隙間からそれを見ている自分の姿が目に浮かぶ。
ここに長くいてはいけない。
なんとなくそう思った。
「天まりちゃん、僕の手袋返してくれる?」
向井さんが私の左手に目をやった。
そう言われて、左手に向井さんの手袋を握りしめていることに気がついた。
そしてその左手が、手袋をはめていることに、一瞬遅れて気がついた。
手袋をしたその手で、もう片方の手袋を握りしめていた。
一気に恥ずかしさがこみ上げてきて、慌てて手袋をはずすと、それを向井さんの胸元に押し付けた。
「ごめんなさい」
恥ずかしさがそうさせたのだろう、向井さんの顔を見ることができずに俯いていた。
「謝ることじゃないよ」
頭上で向井さんの声がする。
向井さんの手が頬に触れる。
私は顔を上げた。
なにが起きるかはわかっていた。
向井さんの唇は、冬の冷気を閉じ込めたように冷たくて、左手にまだ残る手袋の温もりが逃げていってしまうのを、名残惜しく思う私がいた。
「おなかいっぱい」
ほんの一瞬前まで、カニ飯をどんどん口に運んでいたのに、急に試合放棄したみたいに、漆原さんは箸を置いた。
惣菜祭りは、思いのほか早く終わった。
次はデザートワンダーランドに行くのか?
「天まりちゃん、ちょっと待ってて」
漆原さんは、そう言って席を立った。
ダイニングを出て行く漆原さんの後ろ姿を見て、おや?と思った。
漆原さんは普段、体の線があまり出ない、ゆるっとしたラインの服を着ることが多い。色も、ベージュや薄いグレーなど、淡いトーンのものがほとんどで、だからこそ余計に、かけている眼鏡のフレームの黒が際立って見える。
そんな漆原さんが、今日は、体にフィットしたワイン色のカットソーを着て、長めのフレアスカートに幅広のベルトをしている。
そういえば漆原さん、いつもの黒眼鏡、してたっけ??
惣菜祭りに気をとられて、漆原さんの外見の変化に気づく余裕がなかった。
「スカーフ持って来た」
戻って来た漆原さんの顔に、黒眼鏡はなかった。
漆原さんは、オレンジの紙袋から正方形の薄い箱を取り出した。
「漆原さん、ちょっと待ってください」
慌てて言って、私はテーブルの上を片付けようとした。
エルメスのスカーフを、こんな惣菜祭りの上で開いて、タレやソースが付こうものなら、一生後悔することになる。
ところが漆原さんは手を止めない。
立ったまま箱を開けて、蓋をポンと床に落とす。
左手に箱を持って、右手で中身を掴むように取り出すと、今度は空になったその箱を床に落とした。
両手でスカーフを広げる。
そのすぐ下には、およそエルメスには似つかわしくない黒酢あんの肉団子。
「どう?これ」
エルメスのスカーフを広げる時、女性は笑顔になるのではないか。
うっとりした表情になるのではないか。
”エルメスのスカーフを広げる女性の図” としては明らかに不正解の、”ほぼ無表情” で、漆原さんは言った。
どうもこうも、スカーフが肉団子についてしまわないか、気が気でない。
私は思わず、両手でスカーフの裾を持ち上げた。
「素敵ですね。似合うと思います」
朱色を基調に、真ん中の鳥籠から、眩しいほどに色鮮やかな鳥が四方に飛んでいる。
正直、漆原さんのイメージとは合わない気がしたけど、ここまで圧倒的な存在感を放つスカーフともなると、イメージに合う合わない、などということは、問題ではないのかもしれない。
でも…
漆原さんの ”ほぼ無表情” が気になる。
「スカーフ、欲しかったんですか?」
「ううん、別にそういうわけじゃないの。なんとなくね」
漆原さんは、無造作にスカーフを丸めると、床の箱を拾って、まとめて一緒にオレンジの紙袋に突っ込んだ。
そして、ふと思い出したように、骨付きラム肉に目をやると、それを一本つかんで、かぶりついた。
漆原さん、これがあなたの黒眼鏡巨乳女子な一面なんですか??