消えずにずっとそばにある
愛猫はっちとお別れして一ヶ月と二週間ほど経ったころの話。
(自分用メモ:12月14日)
夢の中ではっちに会った。
見知らぬ建物内をさまよい歩いていたところ、行き着いた部屋の台のような棚のようなところにちょこんと座っていたのである。
その部屋にたどり着くまでの私は、何やらよくわからない建物内でどこへ行けば良いのかもわからず、迷子のような心持ちであった。
しかしその部屋に着き、愛猫のうちのひとりである茶トラ猫の「ちゃと」の姿を見たとたん肩の力が抜けた。
猫がのんびり過ごしている場所なのだから悪い場所ではなさそうだ、と思ったのだ。
そうして視線をめぐらせてみれば、はたしてそこにはっちがいた。
ああ、はっちだ。
病気で弱ってしまう前の元気な姿で、相変わらずのふかふかで、彼は私を見上げて微笑むように黄色い目を細くした。
はっちちゃん、はっちちゃん。
名前を呼んで抱きしめるといつもの手触りだった。
豊かな被毛に手や指がうもれて、その奥にあるやわらかな皮膚が伝わってきた。
干したてのお布団のような香りをさせて、はっちはただ穏やかに抱きしめさせてくれた。
抗議も抵抗もなく、ただ飼い主の腕を受け入れてくれる。
それは生前とまったく変わらない彼の姿だった。
また会えて、抱きしめられて嬉しかった。
しかし夢の中の私は冷静で、
「これは夢だ」
「はっちはもう死んでしまっている」
「会えるのは今だけなんだ」
「もう二度と現実では抱きしめられない」
などと気づいていた。
そうして目が覚めると腕の中になまなましく感触が残っていた。
暗い寝室の中、隣に夫が寝ていてまだ朝が来ていないことに気づいて、ぐっと奥歯を噛み締める。
泣いてしまえば嗚咽がこぼれ、夫の眠りを妨げてしまう。
そう思ってタオルを顔に押し当て蓋をしたけれど、ついに悲しみは飛び出してしまった。
夜中にいきなり泣き出した私に気づいて、夫は何も言わず静かに頭を撫でてくれた。
やさしいひとである。
やがて我々夫婦の動きに気づいたムードメーカーの「ちょび」がやって来て、私たちの枕のあいだにポテリと横たわった。
こちらに向かって放り出されたちょびの手を握ると、その胸元からゴロゴロと大きな音が響いてきて、私は涙を流しながら笑った。
かつてはっちも、私たちの枕のあいだに横たわってはゴロゴロと爆音を響かせていたのである。
はっちが存命のころはあまりしなかったのに、はっちがいなくなってから、ちょびにそのような仕草が増えた。
飼い主のケア係を引き継いだのだろうか。
猫の世界はわからないが、とても助けられている。
やがて朝が来て、その日はなんだか漠然と寂しくぼんやりとして過ごしたが、まだまだ寂しいものなのだなあと驚いた。
というのも、はっちが亡くなってから一ヶ月も経つころにはけっこう元気になっていて、我ながら落ち込みはするが回復スピードが速いなあと感心していたからだ。
全然そんなことはなかった。
私はまだ傷ついていて、心の一部をもがれたまま再生できていなかったのだ。
自分で気づいていなかっただけである。
深い悲しみは簡単には消えず、ずっとそこにあるものなのだ。
改めて気付かされた日だった。
そして同時に、自分の中ではっちへの愛情が生きていることにも気付かされた。
死別して、声も体温も感じられなくなっても、愛したものへの気持ちまで風化してしまうわけではないのだ。
共に生きていたころと同じように、色褪せることなくそこにある。
愛情というものは、死別したとしてもずっとなまなましく熱を持って存在しているのだ。
初めて体感したそのことに、私は少しだけ元気をもらった。
愛し愛されたことが、何も無駄ではないと身を以て実感できたことが心強かった。
前回のnoteでも書いたが、愛情では命を救えないと気付かされたばかりである。
愛し合うことのむなしさをぶつけられたばかりの立場で、それでも胸に残るものがあると知れたのは大きな収穫だった。
これからも私は猫たちを愛し続けていくのだろう。