ゴミを部屋に置いたまま忘れてしまうと土に還ってしまい、何を拾ったのかわからなくなってしまいます ③
1990年。無事、美大に合格し、予備校生活を終えた私は、東京の郊外にある鷹の台キャンパスまで通うことになりました。60年代に建てられたコンクリートの大きな近代建築で、5駅しかない古いローカル線の駅から歩いて20分。畑の真ん中にあったので、予備校へ行くため毎日通った歌舞伎町や新宿3丁目とは同じ文化圏と思えないほど、のどかでした。
生徒たちの服装は、ツナギ、ジャージ、大きなパーカー、軍パン、チノパン、MA-1、ライダース、チェックのフランネルシャツと汚れたデニム、安全靴、ハイカットスニーカー、モノトーンの高そうな服、駄菓子のようなワンピースにミニスカート、どこかの民族服、細身の黒いパンツと柄物シャツなど。一般的な古着屋さんのモノなら何でもありそう。けれど、「着飾りすぎても美大生の型にハマるだけさ」のような、冷めた空気もどこか漂っていました。
K子もたいてい軍パンかデニムに、パーカーやフランネルシャツでしたが、休みの間に吉祥寺でウェイトレスをして手に入れた蛍光色のマウンテンバイクで、吉祥寺から国立あたりまで走り回っていました。
私と同じ学部にいたUちゃんは湘南のレコード店の娘さんで、幼い頃から両親に連れられジャズフェスティバルに行っていました。芸大を目指し浪人していた5年間は、歌舞伎町でバニーガールやポールダンサーなどもしていたそう。彼女は当時大人気だったタレントの、宮沢りえとちょっと似ていました。
年上で23歳のUちゃんは、控えめで、派手に着飾った感じはしないのですが、よく見ると、黒いブラジャーにホットパンツにピッタリとしたロングブーツ、そこに、ベルベットのジャケットを、胸元深く開いたシャツのように羽織っていたりします。マスカラ以外はスッピンで、褪せたラズベリー色のつば広の帽子、複雑な革細工の赤茶色のショルダーバッグ、くすんだ淡いピンク色の造花をつけている日もあり、どれも古びていて、大切そうにしてました。キャンパスを歩く他のクールな女性たち(黒髪、凛とした眉毛、刺すような眼差し、濃い口紅、または潔いノーメイク)から見てとれる真摯な姿勢や、表現者としての葛藤、サバサバした気迫、とは少し違う、妙なモヤっとした空気が彼女をとりまいていました。
ある日、私が着ていたラメのニットを「いいね」と言ってくれたUちゃん。嬉しかったので、国分寺の古着屋さんで買ったばかりだと告げ、彼女はいつもどこで買うのかと聞いてみたのです。Uちゃんは少し考えてから「けっこう拾ってる。夜中にリヤカーで」と答えたのでした。
お祖父ちゃんのお下がりの、タイヤの細い赤い自転車に、スエードの、ヒールの太いブーツで跨がったUちゃんは「わたし、ジミヘンとかプリンスみたいな、汚い60・70年代がすきなの」と言いました。