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人口密度は精神的な自由度も奪う

数か月前まで私は東海地方に住んでいましたが、異動に伴い関東に引っ越してきました。

職場は都内ですが、住まいは都内ではありません。通勤時間は1時間半弱、毎日そこそこ混んでいる電車に揺られています。

満員電車がいかに苦痛であるか、については割と語られつくされたトピックです。つまり、満員電車によって失われる時間を何かしらの生産的な活動に充てた方が時間の使い方としては正しい。よって、満員電車に揺られるような場所に住むよりも家賃が上がってもいいからより職場に近い場所に住んで時間を捻出するべきである、というものです。正確には、浮いた時間で高くなった家賃分以上の価値を生まなければ理論的には意味はないですが、そういうことです。

同様に時間を生むという観点ではお掃除ロボット、ドラム式洗濯機、食洗器の導入も巷ではよくその重要性が説かれているところで、私の周りにもそのような時短家電を導入している人は多いです。ちなみに私はひとつも導入していません。

平日休みの利点

今回書きたいのは自分の自由時間を確保せよ、というトピックではなく、都会の土日休みは蒸し器に心の余裕を奪っているということを最近自覚した、という話です。

先ほど申したように私は以前東海地方に住んでいましたが、特に平日休みの仕事をしていました。休日が毎週決まった曜日というわけでもなかったので土日に休みが重なることもたまにありましたが、平日の方が割合としては多かったです。

平日休みの利点は①自分の意志が反映されやすいことと、②時間の流れがゆっくりに感じられることです。①はどこも比較的空いているので、自分のしたいと思うことが人数による制約を受けずに実現しやすいということであり、②は年配の方など、時間に縛られていない人が比較的多いので土日よりも活気がない分時間の流れがゆっくりに感じるということです。つまり、平日休みは自分のようなマイペースの人間にはぴったりなわけです。

関東(=「都会」「混んでいる」というニュアンス)での土日休みの生活はこの逆でした。平日は人混みの中通勤し、会社も当然人だらけ。帰宅時も人混み。人口密度の高さはそのまま土日に引き継がれ、どこも人、人、人。東海に住んでいた時は土日休みであってもあえて世間の潮流に乗らず、時間帯をずらせば何とかなる場面も多かったですが、関東の場合、近所のラーメン二郎は13時半でも大行列。時間をずらしていると夕飯時になってしまいます。

結局、人間が不得意

人混みから避けられないという事実が実はストレスになっていると自覚したのは最近です。それはなぜかと考えてみれば上に書いたように、混雑の影響で自分の意志が反映されないからであり、突き詰めれば私は人が基本的にあまり好きではないんだと思います。自分に無関係な他人といると気疲れをしてしまう。滅私奉公とまではいかずとも、自分の意見を犠牲にしてまで周囲に合わせようとする節があるので、それが休日であっても強いられているという感覚が不快なんだと思います。

人口密度が高い生活圏で暮らすというのは行動面での制約が生じるのみならず、それだけ気を遣う対象となる人間が多いということであり、その事実が自分の精神的な自由度も奪っているのだと感じました。気が休まらない感覚は引っ越してきてからずっと感じてきたことですが、これはあくまで新天地に慣れていないからだと思っていました。それも原因の一つであることは事実ですが、人に囲まれた生活を窮屈に感じているのも間違いないんだと思います。

多分これはただのないものねだり。これで田舎に引っ越したらそれはそれで都会の利便性が失われたことをぼやくんでしょう。普通が理想、というのは世の常ですが、人間、住む環境に関しては生まれ育った環境が普通として定義づけられているのだと思うと、地元を基準として考えるべきであり、実は東海地方はすごい暮らしやすいところだったのかもしれない、と感じてしまう日々です。

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