現世のご縁は多生の縁でできている証拠とも言えるお話
今期の日曜ドラマが良かった。
美しかった。
それはさておき・・・
「知らない土地に来ても
鉄平が来てたのかもしれないって
そしたら誰も他人に思えなくてさ
もしかしたら鉄平が声をかけた人かも
その子どもか孫かもって」
最後の方のセリフが心に沁みた。
似たような世界観を表す有名な言葉と言えば
これを思い出す人も多いのではないかしら。
「袖振り合うも多生の縁」
人とのご縁はたまたまではなく、偶然ではなく
前世からの深い因縁によって起こる
だから大事にしなければならない
そんな意味だそうなんだけど・・・
日本人のこの世界観にはホント素晴らしいと思ってきた。
ただ、いつからそう思ってきたのだろう。
「袖振り合うも多生の縁」
記憶を辿ると・・・
これを地でいく体験が10代の頃にあった。
10代で体験した多生の縁の話
10代の頃
ある学校で、出席番号が前と後ろになった
私とクラスメイト
特に仲良くなるわけでもなく、仲悪くなるわけでもなく
ただ前と後ろのクラスメイト、それだけの仲
話をしないわけでもないが、積極的に話すわけでもない
お互い深くは知らないが顔見知り
ただそれだけの関係の一年間
それが終わった春休みに
1000キロ離れた田舎から祖母が来た
遠く離れたど田舎が両親の出身
祖母は昔の知り合いを訪ねてきた
かれこれ35年ほど前に、訳あって消息不明になっていたそうだ
住んでいる場所をどうやって知ったのか
それは私たちの住んでいる町だった
多分、縁もゆかりもない町なら
祖母は行かなかったかも知れない
それが偶然子どもたちが住んでいる町だったから
子どもと一緒に訪ねようと思ったのだろう
そんな話をチラリと聞いたけど
私は興味も関心もなく話半分で聞いていた
大体、消息不明になるくらいだから
本人が会いたいのかどうかも分からないのに
なんでこの人たちは訪ねていくのだろう
そんなことをふと思った
そして案の定あとで親から聞いた話では
祖母と一緒に会いには行ったけれど
何かしら気まずい雰囲気だったらしい
先方は会いたくなかったのかも知れないと・・・
そんなこと分かりきっていたはずなのに
なぜ祖母が会いたかったのか
二人の間に何があったのかは知らない
偶然も重なりすぎると偶然とは言えない
話はここからで
母「そういえば子どもさんの学校があんたと同じだったわ」
私「へえ、偶然やね」
母「◯組だったらしいけど知らない?」
私はクラスも忘れていた
名前も聞いたけれど覚えていない
(私は学校に関心がなさすぎた)
私「さあ、知らないわ」
それで会話は終わっていた
終わっていたのだけど
後でようやく思い出した!
いや、いや、いや
知らないわけがない
一年間出席番号が前と後ろだったクラスメイトだ
まさか私とクラスメイトの間に
過去にご縁があった人たちの
子どもと孫という関係があったなど予想だにしなかった
35年ほど前に、1000キロ離れた田舎での関係が
巡り巡ってこうなると誰が予測しただろう
同じ町に住み、同じ学校に通い、同じクラスになり、出席番号が前と後ろ
偶然にも程がある
重なりすぎる偶然は、意図的に仕組まれたとしか思えない
多生の縁の体験から10代の私が学んだこと
そしてその出来事から10代の私が学んだことが深いのよ
「袖振り合うも多生の縁」
人とのご縁はたまたまではなく、偶然ではなく
前世からの深い因縁によって起こる
人は果たすべきことを避けていたら
子どもや孫の代に課題を残すのかも知れない
今の私の課題は先祖がやり残したものかも知れない
そんな世の中の仕組みを10代で知ってしまった
ここには書けない現実がそれをはっきり教えてくれた
親として課題を先送りしないよう心がけた
だから親になった時には
自分の問題は出来るだけ自分の代で解決しておかなければならない
そう強く思った
親子の問題は世代を遡って見えてくる
子どもたちには残したくない
ただ、一つ問題が解消しても、別の新たな問題が発生する
問題や課題のない人生などあり得ない
それでも子どもは子どもの問題だけに取り組めるようにしておきたい
そんなことを考えて親をやってきた
この話は子どもたちにはしていない
いつか子どもが親になり孫と話ができるようになったら
そっと伝えるかも知れない