わかりあいたい
わかりあいたい。
と思ってきた。
どんな人ともわかりあおうとすると自分が疲弊する。一方的なコミュニケーションにより、勝手にすり減る。それはわかっている。
学生時代、私は「共感」という言葉を使うことが多かった。誰かと同じ感情を共有することで幸せを感じてきたのかもしれない。だからこそ、同じ気持ちを共有できない、わかりあえないことに寂しさを感じてきた。
わかりあえないと早めに判断し、深入りしないことも自分の心を守るために大切なことだと思う。だけど、心のどこかで、わかりあえないと判断することに悲しさやさみしさがあった。
ある日、Mさんに「わかりあえない人ともわかりあいたいと思って疲れることがあるんだよね」と話をしたところ「出会う人の幅が広がったということじゃない?」と言われた。
たしかに、学生のころは所属するコミュニティを自分で選択し、居心地がいい場所を自然と選び、そこには自分と同じような考え方を持つ人が多かったように感じる。
世の中にはいろいろな人がいると頭ではわかっていたつもりだが、実際に対面してみると、なぜわかりあえないのかと悲しみの感情を抱くことも多かった。
わかりあえない人とも出会うようになったのだ。それだけ広がってきたのだ。
そもそも全てわかりあうなんてことはないし、
自分のことすらわかっているとは限らない。
わかりあえなくてもいい。共感できなくてもいい。共感のために、自分をすり減らすなんてごめんだ。
むしろ、考えや気持ちに共感できなくても、違いを恐れずに素直に伝え合えることの方が大切なのではないか。そう思い始めた。
考えに違いがあるのは当たり前。気持ちを正直に伝えることができる安心感や信頼関係が大事なのではないか。
そして、関わる人全員に対して無理に信頼関係を築こうとするのではなく、自分が大切にしたいと思う相手との関係を大切に育てていきたい。
私は心地のいいコミュニケーションを追い求めることを、諦めたくないのかもしれない。面倒だし、傷つくこともあるけれど。
相変わらず人への興味はとてもあるし、人との関わり合いが好き。
だからこそ、自分の心を守りながら、自分と他者の間にゆるやかな境界線を引きながら、心地の良いコミュニケーションを模索し続けていこう。