ホンマタカシ「即興」
少し前ですが、東京都写真美術館でのホンマタカシの写真展「即興」を見てきました。
もう多くの人が見いますが、ピンホールカメラでした。それよりはカメラオブスキュラでした
それを知らずに、同時に行われていた「日本の新進作家Vol21」を見るついでに見にいったんだが、ちょっと面食らいました。なんでピンホールなんだろう、なんでカメラオブスキュラなんだろうと。
ホンマタカシは、絵の心得があって、オブスキュラにしたのかなと考えたんですが、時間が経って考えると違う考えが浮かんできました。
ホンマタカシは写真の枠を考えたんだと思います。
「写真とは何か?」よくある問いです。
一つの定義として、光を物理的な状態に定着させるという考えることができる。
写真が誕生した直後のダゲレオタイプ、フィルムカメラ、デジタルカメラ、そしてSNSと色々と写真の形態は変わってきているが、最終的な出力として何らかの物理的なもの定着させるというのは共通している。
光を何らかの形で物理的な状態に定着させるということから、写真の在り方を考えたのだと思う。
写真の枠を考えた場合、写真を撮るときに使用しているカメラってなんだろう。写真はカメラでしか撮れないものなのか。紙に定着させるには、レンズは必要なのか?
さらに、いい写真を論議する場合によく言われるピント問題がある。
いい写真の条件にピントが合っていることが必要だと考える。それはほんとに必要なものなのか、ピントが合ってない写真でもいい写真はいい写真じゃないのか。今のピントの合い方だってほんとに写真を成立させるために絶対必要な合い方などか?
ホンマタカシが写真を始めた頃は、フィルム。それがデジタル技術の発展によるデジタルカメラの進歩、そしてインクジェットプリンターの進化、インターネットの普及にともない紙へのプリントが終着点ではない、ディスプレイ上での終わる写真の在り方。写真から発展して動画への展開、動画と写真の境目が曖昧になってくるなど、写真というものが何か、その枠組みと概念やイメージの 拡大、境界線が曖昧化している現状において、それについてホンマタカシなりの考えが今回の展示だと思う。
被写体の選び方にも意味があるように感じる。彼は、都市のあり方について興味があると言われています。今回もニューヨークのあれはセントラルビルなのかな。それに富士山とありました。これってなんだろうなぁと思った。
最初の丸い写真。多分、オブスキュラを始めた時に、実験的に撮った写真だと思うが、なぜその被写体を選んだのかっていうのも気になります。
途中の鏡を使ったインスタレーション。あの中に入ることによって、自分がその都市の中で迷っているような錯覚を覚えた。同時に一つの一つの建物が角度や立ち位置によって違う面を見せることが都市の多様性に繋がっているような感覚を覚えた。そこから、都市に生きることの意味ではないな。都市で生きていることの感覚を表現しているような気がします。
富士山は日本の象徴的な山であると同時に東京から見られることに価値がある、喜びがあるように見える。都市から外を見て価値を見出さすこと。人工的な建造物、直線的な建造物の中で、富士山が見えることによって、自分が生きている場を改めて考えさせる。存在としての富士山として捉えて撮影したのか。もしかしたら、東京に住むことの一つの何らかのアイデンティティとなっているのか。東京に住んだことがないので、推測ですが、都市を撮る中に富士山を入れる理由として考えた。
ですが、絶対にね、こういう展示にしたのはね。ホンマタカシのいたずら心だと思うんですよ。
だって都写美に行ったら、やっぱりどんなすごい写真があるかと期待するじゃないですか。
あえてそれを裏切る。
遊び心ですよね。
楽しんでるんですよ。だからピアノのライブなんかするんでしょ。
それによって見る人と展示した人との関係ができるしそこに生まれる関係性は即興のものだということでしょう。
彼は写真を撮ることを楽しんでるし、写真を撮って見せることの先にある、他の人との関係性を楽しもうとしているんだと思います。