王たちの肖像 鬼海弘雄写真展
interfaceにて待望の鬼海弘雄さんの写真展「王たちの肖像」が始まり、初日に見てきた。
写真集を見て、プリントが素晴らしい事は写真集「王たちの肖像」を見てわかっていた。
実際に素晴らしい写真達と出会う事ができた。
プリントの美しさもさることながら、それと同じかそれ以上に胸をうったのは、鬼海さんと写真に写っている人の距離感。写真の人の声が聞こえるような、何を話してくるのか想像できるような、語りかけられるような写真には驚きと歓喜を覚えた。
ポスターにもなっている迫力のある男性の写真は、どこか怖さを漂わせているように思えていたが、プリントをら見るとそうではなかった。確かに迫力と存在感はあるが、その人の優しさが滲み出てきていた。大工の棟梁も写真集で見る以上に人柄が伝わってくる。日本舞踊の先生の写真でも、写真集で見る以上にその人が話しかけてくるような、その場の空気感が感じられた。
撮影の時に良い関係と雰囲気があったことが写真から滲み出ていた。
浅草寺に来た人に声をかけて撮る。大きなカメラを設定たい赤の他人が警戒はされるのは当然だが、撮影までの時間にその関係を柔らかくし、写真に落とし込めている。これが凄い。
鬼海さんの人柄や人に対する優しい視線があったからなのだろう。撮りたいと思った人をその場で好きになる、違うな、その人の巣の人柄にに触れる、知ろうとするリスペクトが良い関係作りが写真に出ている。
シャッターを切った後に、レンズの向こうから笑顔でありがとうと言いながら、近づいてくる鬼海さんの姿が見えてくる。
それを伝えるのが美しいプリント。
フィルムから自ら、焼いたという一枚一枚のプリントのクオリティは凄い。
革ジャンの柔らかさ、ニットの質感、流れ落ちてくる汗など、肌の質感、服の質感がすごく伝わってくる。
色が見えるようなモノクロというが、言葉のとおり。色も質感も見えてくる。これだけのクオリティの写真は東松照明、ユージン・スミス、奈良原一稿のプリントと同じ最高レベルのプリント。胸を打つようなプリントでした。
今、ポートレートはすごくとられています。SNSと関連して流行していると思います。ポートレートも若い女の子が多く、それをどれだけ可愛く撮る、印象的に撮るに傾向がある気がします。
鬼海さんのこのポートレートは、その人自身、その人そのものを素で受け止めて、それを写真の中に落とし込む。これに近い写真は、石川竜一くんの「OKINAWAN PORTRAUTE」です。ですが、石川竜一くんのポートレートと鬼海さんの被写体との距離感はだいぶ違う。そこには、撮る人の人柄がよく出てるいる。それによって、写っている人の人柄やその場の空気化が写真に反映されているのが、2人のポートレートです。
2人の写真集を見比べるのは非常に面白いと思います。
写真集もいいけど、実際に作家が仕上げた生のプリントを見ると訴える力が全然違う。
最初の「王たちの肖像」と「東京ポートレート」、最後の「PERSONA」を比べるととわかる。三冊とも印刷が違う。結論に言えば古い方の写真集が写真の魅力をよく伝えている。今の印刷技術が悪くなっているのではない。しかし、当時はモノクロに特化した印刷の中で突き詰めた印刷技術があったが、現代はカラーがメインであり、モノクロに特化した印刷技術の需要が少ないために、その技術は失われているそうです。そのためにもう最初の「王たちの肖像」のような写真集を印刷することが難しいようです。
最初に「王たちの肖像」を見て鬼海さんの写真の凄さを実感したんですが、やはり生のプリントは違ったもすごかった何度もみたい。
そういう写真を見ることができてよかった、何度でもみたい展示です。
さて、もう一度行ってこようか。