居場所がなかったら作ればいい
公の学校に行かない時の選択肢
わたしは、昨日の夜こんなツイートをした。
わたしには5歳(年中)の息子がいる。
少し前からなぜか彼は「小学生にはならないことにした」と宣言し始めていた。(現在幼稚園にはたまに行っている。)
何を話して聞かせた訳でもないのだけれど、息子の中で小学校に対するネガティブイメージが湧いてしまった様子。
元々、公的な『教育』への疑問を持っていた私は、息子の宣言に対してやっぱりそうだよね、と同意のような感覚さえ持った。
息子がそんなことを言い始める前から、わたし自身考えるところがあって、公の学校に行かない場合の選択肢について調べ始めてはいたからだ。
でも息子の主張は、「ずっとおうちに居たい」というもの。もちろんそれも一つの選択肢ではあると思う。
かと言って、ずっとホームスクールで過ごせるのか?
その点に関しては多少の不安感はある。来年の春にどこで暮らしているかもわからない転勤族の我が家は、先の見通しが立てにくい。加えて経済に十分余裕があるとは決して言えない。
たまたま息子に合うオルタナティブスクール(公的な学校やフリースクール以外の、多様な理念方針を持って運営されている学校の総称)があればいいのだけれど。そしてその学費が我が家で払える範囲ならいいのだけれど。
次第にわたしの中で、どこか息子にあった場所を探さなければ!という思いや、おそらく今とは違う土地で息子は就学年齢を迎えるので、その近隣でちょうどいいところが見つからなかったら?という不安が湧いてきた。(まだ1年以上もあるのに…そして本人はあくまで家に居たいと希望しているのに。)
なかったら作ればいい
そんなもやもやを抱えていたわたしに昨晩、ふっと降ってきた(?)考えが「なかったら作ればいい」だった。
一度そう思いつくと、何だか今までのもやもやは何だったんだろう?とさえ思えてきた。
何も形式の整ったものである必要はないんである。ホームスクールの延長くらいの感覚で、最初はわたしと息子の二人で始めたらいい。
家で二人で向き合わないといけないかのような感覚に陥るとホームスクールへの不安が湧くけれど、『そのうち誰かがメンバーに加わるだろう、今はまだ二人のスタートだけれどね』と思っていたら、そこは閉じられた空間ではなくなるだろう。
ちょうど私にこのアイディアが浮かんだ数分後、これが以心伝心というものか?というタイミングで息子が「ママのゆめはなに?」と聞いてきた。
まさに浮かんだ思いがぼんやりと流れて行く前に言葉にするチャンスを得たわたしは喜び勇んでこの話をした。
すると「どんな学校もいや、おうちにいる」と言っていた息子が満面の笑みで「それ、いいね!」と応えてくれたのだ。
『与えられたもの』の中にいると忘れてしまうもの
そういえば、今の場所に引越してくる前、新しい土地に行ったらどんな環境なのか?不安だった時、この『なかったら自分で作ったらいい』という感覚を持っていた。
でも、実際に引越してみて幼稚園も(もちろん)あるし、そこまでの不自由を感じずに暮らしているうちに、与えられた環境・すでにあるものの中から選ぶものという感覚が浸食してきて、『なかったら作る』を忘れていたのだった。
それを思い出した今、ごちゃごちゃと思い悩むべきことはほとんどないかのように感じられるわたしがいた。
大事なのは思えるか?
結局、大事なのは『思えるか?』
昨夜『学校を作ったらいい』と思っただけで、現実には何一つ変化はない。でも、そう思えただけでわたしの気持ちは全く違うのだ。
行く手の雲は晴れ、明るい匂いがする。
不安感はない。
その昔、大ヒットした大事MANブラザーズバンドの歌の中にこんな歌詞がある。
ここにあなたがいないのが淋しいのじゃなくて ここにあなたがいないと思うことが淋しい
そう、いない事実よりもいないのだな~と思うことが辛いのだ。
同じように、出来ないことよりも出来ないと思うことが、不安や無力感を生むんじゃないだろうか?
できるかどうかわからないことも『できる』と思うだけで、見える世界が変わってくる。そして人は自分に見えている世界の中で生きるものだ。
うっかりまた、与えられた世界の中だけを生きる感覚に戻らないように、最初のnoteに、昨夜の思いを書き残しておけて良かった。