『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』本当に人を癒すのは誰なのか?
本との出逢いは必然
『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』東畑開人著を読んだ。
本との出逢いには「これは必然だ」と思うしかないことが多々ある。私はあまりスピリチュアルなことを信じていないけれど、それでもやっぱり必要な時に必要なものと出逢うように、この世は出来ている。と感じる瞬間がある。
この本とわたしの出逢いの経緯はこうだ。
ここしばらくはTwitterをチェックすることが習慣化している。その日もタイムラインを眺めていたわたしは、あるコミュニティについてのつぶやきを目にした。
わたしは既に3つの有料コミュニティに参加していた。それらの活動にかなりの時間も費やしていたので更に増やすのは無理がある状況だった。それでも魔がさしたとしか言いようがない。
入ってしまったのだ。
そのコミュニティで、この『野の医者は笑う』をみんなで読み、ディスカッションしましょう、という企画が立ち上げられていたという訳だ。
この本は、正統な臨床心理士である東畑さんが、(全く知り合いではないけれど、すっかりこの方が好きになったので親しみを込めてそう呼ばせて頂く。)『野の医者』の治療を実際に受けまくり、その体系を徹底調査していくなかで、「心の治療とは何か?」を考える本だ。
『野の医者』とは何か?
本にはこう書かれている。
私たちの日常は実は怪しい治療者に取り囲まれているのではないか。彼らを「野の医者」と呼んでみたらどうだろう。近代医学の外側で活動している治療者たちを「野の医者」と呼んで、彼らの謎の治療を見て回ったらどうだろうか。『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』P13より引用
古くは祈祷師や陰陽師などに始まり、今ではユタ・ヒーラー・セラピスト・占い師etc…そういった近代医学では説明できない方法で人を癒す人たちのことを総じてここでは『野の医者』と読んでいる。
ここまで読んで、わたしは驚いた。
わたしは、心理系の大学を出た訳でも医療を学んだわけでもないけれど、自分が病んだ経験と自分を癒すために身に着けた知識で、人を癒す仕事を始めたばかりだったからだ。わたしはさしずめ駆け出しの「野の医者」だったのだ。
そして読み進めると、今まさにわたしが葛藤していた部分につながっていく。それの葛藤とは、
心を病んだものだからこそ癒せる闇があるのか?
本当に人の心を癒せるのは誰なのか?
ということだ。
傷ついた治療者
野の医者とは病み、そして癒された人たちである。(中略)野の医者たちは自分が病み、癒された経験から得たものを、今病んでいる人に提供しているのである。自分を癒したもので、人を癒す。そして人を癒すことで、自分自身が癒される。こういう現象を、ユングという偉大な心理学者は、「傷ついた治療者」と呼んでいる。『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』P46.47より引用
「傷ついた治療者」。
それは深く病んでいた当時の私が求めていたものだった。もしかしたら、わたしは当時病院通いをせずに、ヒーラーに助けを求めたら良かったのかもしれない。
でも長年の「病み生活」の中でわたしが関わってきたのは、精神科医であり、病院や大きなカウンセリングセンターに所属する臨床心理士の先生方だった。
服薬し、経済の許す範囲でカウンセリングを受けてきた。
そこで出会った人たちは少なくともわたしから見て「傷ついた経験のない治療者」たちだったのだ。
もちろん、どんな人でもそれぞれの苦しみや挫折を抱え、乗り越えたり、心の中にしまっておきながら生きている。苦しんだのは自分だけだというつもりなどない。
ここでわたしがいう「傷ついた経験」とは、苦しみや闇が大きすぎて日常生活を送るのも困難な状態に遭遇し、病にまでなった経験、という意味である。
臨床心理士の先生方に話を聴いてもらうことで心を保ちながら、「本当には、わたしの苦しみはあなたにはわからないでしょう?」という思いが当時のわたしの中には確かにあった。
だからこそ、私が「傷ついた経験のある治療者」としてのカウンセリングを提供することに意味がある、と考えたのだ。
一方で、自分のこれまでをさらけ出すことが、本当に今癒しを求めている人にとっていい効果をもたらすのだろうか?という疑問も拭いきれないでいた。
本当に人を癒すために必要なことは何か?
治療者は、自らの過去の体験をどこまでオープンにしたらいいのか?どこまでさらけ出すことが、クライアントのためになるのか?
これについてもずっとわたしは考えてきた。
わたしに比べて致命的な出来事は経験していない(とクライアントが感じる)場合、自分より辛い経験をした相手(わたし)に、自分の苦しみを語れるだろうか?
反対に、わたしの経験など取るに足らない(とクライアントが感じる)場合、『結局、あなたなどに私の苦しみは理解出来ないでしょう?』とかつてのわたしが医師や臨床心理士の人たちに感じたような思いを抱くことになるのではないか?
カウンセラーのバックグラウンドを知らないからこそ、思いのままに心を打ち明けられることもあるのではないか?
そうであるとしたら、その道一筋の専門家ではないわたしが心の癒しに携わることの意味はなにか?
「傷ついた治療者」だからこそ出来ることが本当にあるのか?
そもそも、ひたすらな共感だけでは治療することは出来ず、むしろ治したいのなら必要なのはその深い闇に共鳴することではなく、浮かび上がるための『浮き輪』になるものの存在を示すことだとも言える。
正確には、『心の浮き輪』を自ら見つけるサポートをすることだ。(そしてわたしは、全ての人にそれを見つけ出す力はあると信じている。)
その為に、「傷ついた治療者」である必要はあるのか?
闇を克服(といえるとしたら)した体験はどこまで癒しに役立つのか?
だいたい、今わたしは、服薬をせず、定期的なカウンセリング通いをしなくても日常が送れているというだけで本当に『治った』と言えるのだろうか?
その疑問にもこの本は一つの答えを示してくれたのだ。
野の医者はいまだに病んでいる。病むことを生き方にした人である。こういうことに気付き始めたとき、私にとっては健康とは何だろうということが大きな謎となった。(中略)「でも誰か、究極に健やかな人っているのかな。みんな病みながら生きていて、それを受け入れるってことが、ありのままなのかもしれない」私は強く頷いた。本当にそうだ。健康な人と病んでいる人を完全に分けること自体が、愚かな質問だったのだ。『野の医者は笑う 心の治療とは何か?』P136.137より引用
そうなのだ、特に心の健康と病みの境目は、きっかりと線引きできるようなものではない。病んでいてもその『病み』を受け入れながら生きていけるのならば、その人の暮らしは健やかなものと言えるかもしれない。
もしかしたら病んだ体験は、他者を癒そうとしその行為で自らも癒す行為をし続ける原動力になるにすぎないのかもしれない。
そしてわたしは、それで充分な気がしてきたのだ。
結局心の治療とは何か?
最後に筆者の東畑さんは、心の治療とは何か?という問いに答えを出している。
でもここでそれを引用はしない。
現時点でのわたしなりの答えは、
心の治療とは『人の心をその人の望む場所に保つ支えになる全ての行為』だ。
心をどんな状態に保ちたいのか決めるのも(もちろん揺れ動く状態も選択肢の一つだ)その手段を選ぶのもその人自身であって、どれが正しいとか誤っているといったことは(それが本人を破滅に導く行為以外は)ない。
その手段としてカウンセリングも占いもマッサージもセラピーも文学も芸術もその他、数えきれないくらいたくさんのものがある。
それを選ぶ時点で、主導権は本人にあるのだ。
そう、心の治療とは癒されたい本人の意志の基でのみ、成立しうる。
つまり本当に人を癒すのは、癒されたいその人自身だ、と言えるのではないか?