悪魔の溺れ方
後ろの席の彼は、硝子細工のように繊細で、脆くて、華奢で、噛み潰してしまいたいような色気を持った不思議な少年だった。
度のキツい眼鏡をしているにも関わらずらレンズ越しでもきちんと存在感のある瞳が、机上でぱらぱらと捲られている本をたしかに追いかける。
俺が差し出すプリントなんて一瞥もしないで、ひたすらに文章を読み解いている。500円の単行本に没頭する彼のことを眺めるのが、俺は、本当は好きなのだ。
でも今は授業中なので。
「おい、プリント」
自分でもびっくりするくらいぶっきらぼうに言ってしまったのに、彼はふいと長い睫毛を揺らして俺のことを涼しい顔で見上げる。
特に感情の籠らない声で「ありがとう」と告げる。夏の青葉が揺れるような声だ。
がたり、と椅子を揺らして前に向き直る。
やわい黒髪が載る白い首筋、流し目の下向いた睫毛、深爪ぎみの神経質な指先。プリントを後ろへ回していくだけの時間なのに、じわりと下世話な汗が俺の背中を湿らせた。
俺は、別にゲイじゃない。
俺が一般からズレているんじゃなくて、こいつが普遍から外れているのだ。
知っている。こいつは、碌でもないのだ。
男も女もいいように取っ替え引っ替え。飽きたらポイと捨ててしまうくせに、誰もこいつの、悪魔も肝を冷やすような悪事を暴いていないのだ。
かくいう俺も、偶発的な事故とはいえ、この男が修羅場を作り出しているところを目撃した。
なのに誰にも何も言えないまま、こうしてただ授業中に読書に励む悪魔の姿を指を咥えて眺めているのだから、恐ろしい。
彼のゾッとするような繊細さを前にすると、どうにも可笑しくなる。
乱暴に触れたら壊れてしまいそうなのに、丁寧に触れたらこちらがぴりっと傷をつけられてしまうような。手を伸ばせば届きそうなのに、その実、手なんて伸ばしたが最後、闇に引き摺り込まれてしまうような。
こいつの姿には、そういう恐ろしさを孕んでいる。
じろりと悪魔のことを見ていたら、ふと窓から風が吹き抜けた。その刹那、細く長い睫毛の下に隠した星座盤のような瞳が俺のことを捉えて、ふわりと三日月に変わった。
「そんなに見られたら、穴が空いてしまうよ」
悪魔は本をぱたんと閉じ、俺のためだけに微笑んだのだ。それだけで、魂を炙られたような焦燥が心臓を撫でた。星座盤の瞳には、アンタレスがちかりと瞬いた。
そんな錯覚さえするほど、彼の瞳には、俺の息の根を止めんばかりの熱があった。
水の中で酸素を探す時のように、喉の奥からかこっと不気味な音がした。俺はたしかに呼吸を忘れていた。
「ああでも」
三日月がまた、丸い星座盤に戻る。代わりに、彼の薄くて白い唇が、緩やかに弧を描いた。
悪魔は上品に唇だけで微笑んで、憐れむような視線を差し向ける。レンズを挟んでいるというのに、憐憫の温度に焼け融けてしまいそうだった。
「君の瞳のために、僕の心臓に穴が空いたなら。君が僕を殺してくれたなら。それは、中々悪くないね」
ひたり、ミルクのように白い肌が俺の頬を包んだ。
耳鳴りがしているのに、青葉のような悪魔の声だけはきちんと鼓膜を揺らしていた。
目を逸らさないと、可笑しくなる。わかっているのに目が離せない。喉が渇いて、ヒューと下手な呼吸音が俺と彼の間にだけ響いた。
俺のことを喰らい尽くす瞳を、背筋まで凍えるような、おぞましいほどの美しさだと思った。星座盤に映る蠍の心臓はちりりと光って、たしかに、俺のことを離さなかったのだ。
「僕のために溺れておくれよ」
どぷん、と足元の沈む音がした。