ヨルシカ『嘘月』と尾崎放哉
ヨルシカの『嘘月』という曲
これめっちゃ好きなんですよね
この『嘘月』という曲は、尾崎放哉の詩をオマージュしたと思われる歌詞がいくつかみられます。
ヨルシカが好きすぎて、つい尾崎放哉の全句集を買ってしまった女が、『嘘月』の歌詞と関わりのありそうな尾崎放哉の句をぼちぼち紹介しつつ、考察していこうと思います。
以下、目次タイトルが放哉の句です
こんなよい月を一人で見て寝る
この句は間違いなくオマージュされてますね。
以下『嘘月』の歌詞です
夏が去った街は静か 僕はやっと部屋に戻って
夜になった こんな良い月を一人で見てる
めちゃめちゃわかりやすいオマージュですね。
ただ、オマージュ元では一人で見て「寝る」となっているのが、『嘘月』の方では「一人で見てる」となっています。この歌詞の後で
本当なんだ、昔の僕は涙が宝石で出来てたんだ
そうなんだ、って笑ってもいいけど
と続くことを考えると、『嘘月』の語り手は、月を見た後に一人で寝るのではなく、月を見ながら誰かに語りかけるように懐古しているように感じられます。
一人でいるはずなのにまるで語りかけるような口調です。誰に語りかけているのでしょうか。
僕はさよならが欲しいんだ ただ微睡むような
物一つさえ云わないまま 僕は君を待っている
この後の歌詞から考えると、おそらく「君」を思い、語りかけているのでしょう。
部屋から夜の良い月を見上げて、君のことを思う。
そんな情景が思い浮かびますね。
では次の句に行きます。
底が抜けた杓で水を呑もうとした
これは少しわかりにくいですが、底が抜けた柄杓で何かを呑もうとする行為は『嘘月』の中にも登場します。
歳を取った 一つ取った 何も無い部屋で春になった
僕は愛を、底が抜けた柄杓で呑んでる
すごく特徴的な歌詞ですよね。
「愛を底が抜けた柄杓で呑む」なんて、どんなふうに生きてたらそんな素敵な言葉が思い浮かぶんでしょう。
すごく好きな歌詞です。
そもそもの尾崎放哉の句は飲もうとしているのは「水」です。また、水を「呑もうとした」と言うだけで、実際に呑んだわけではありません(呑めるわけもないのですが)
しかし、『嘘月』では「愛」を底が抜けた柄杓で「呑んで」います。この後の歌詞は以下のように続きます。
本当なんだ、味もしなくて 飲めば飲むほど喉が乾いて
そうなんだ、って笑ってもいいけど
僕は夜を待っている
と、呑んだ愛をこのようにレビューしています。
ですが、味もしなくて飲めば飲むほど喉が渇くだなんて……と思いますよね。
私は、愛なんて呑めていなくて、ただ空虚に空気を呑んでいるだけなんじゃないかなあ、と思っています。底の抜けた柄杓ですしね。
個人的には「呑む」から「飲む」に漢字が変換されているのが気になります。
ここで、「飲む」と「呑む」の違いについて、
正しい日本語.comから引用します。
「飲む」は
「水や汁物などを口に入れてのみ込むこと」です。
しかし、日常では液体のものに限らず、固体の食べ物などを嚥下するときには「飲む」を使うことが多いです。
そのように考えると、もともと口に入れてのみ下すことを前提に用意されているものは、すべて「飲む」でよいと思われます。
「呑む」は
「かまずにぐっとのみ下すこと」です。
もう少し詳しく説明すると、通常口にするはずのないものを、かまずに丸ごとのみ込むことです。また、「呑む」は比喩的な表現や慣用句でもよく使われます。
と、このような違いがあるようです。
「呑む」は比喩的に使われることもあるとのことで、そう考えるとやはり愛を呑んでいる、というのは比喩的な表現なのかもしれません。
でもその後の歌詞で「本当なんだ」と言っていることも考えると、ただ比喩的に言っているだけだと一蹴するのも中々難しいように感じますね。この点はまた機会があれば深く掘り下げたいなと思いますが、今回はこの辺りで切り上げます。
私としてはやはり、尾崎放哉が「水を呑もうとした」と詠んでいるのに対して、『嘘月』では「愛を底が抜けた柄杓で呑んでる」と断定系になっているのは重要な点だと思います。
本人は愛を呑んでいるつもりになっているのに実際は空気を呑んでいるだけ、という、なんとなく物悲しい情景なのかな〜と今のところは思ってます。
ふわふわ解釈でごめんなさい。
ここまでの二句から考える
私が『嘘月』の中からわかりやすいオマージュとして見つけたのはこのふたつだけです。
ひとつ目の句では「寝る」のではなく、良い月を一人で見て君のことを思っている、という風に変化していることが読み取れました。
ふたつ目の句では水を「呑もうとした」という句が愛を「呑んでる」と断定する形に変換されていることから、愛を呑んだつもりになっているだけで実際は空気を飲んでいるだけなのではないかという考察をしました。
気になる点としては、このふたつの句がオマージュされている部分、メロディが同じなんですよね。これが偶然とはあまり思えません。
そして、『嘘月』の中にはもう一つ、これらと同じメロディのフレーズがあります。
雨が降った 花が散った ただ染まった頬を想った
僕はずっとバケツ一杯の月光を呑んでる
この歌詞の「バケツ一杯の月光を呑んでる」の部分です。バケツに入った水、その水面に揺れる月光に口をつける。そんな情景が思い浮かぶフレーズですね。
上に示したふたつが尾崎放哉からのオマージュであることを考えると、この歌詞も尾崎放哉からのオマージュである可能性はあるんじゃないかと思います。
また、ここでも「呑む」という字が使われています。
「月光を呑むというのは比喩的な表現だからだ」と言われればそれまでなのですが、『嘘月』の中では「呑む」と「飲む」の字が使い分けられているという点を考えると少し気になります。
私自身、尾崎放哉の全句に目を通しきれているわけではないので、今後「バケツ一杯の月光」というフレーズが尾崎放哉の句の中にあるかどうかを調査する必要があると感じます。今後の課題ですね。
また、放哉の句になかったとしてもこのフレーズがかなり重要な物であることは想像にかたいので、また今後このフレーズ一点に絞って考察してみても面白いかもしれません。
終わりに
今回は『嘘月』について、オマージュ元である尾崎放哉の句との比較から考察しました。全体的な印象としては、『嘘月』の方では尾崎放哉の句よりかなり未練がましいというか、切なさとか虚しさが全面に出ている感じがするなあと思いました。
これは余談なのですが『思想犯』の中にも尾崎放哉の句は引用されています。
話を広げると長くなるので詳細は割愛させていただきますが、『思想犯』で引用された句も今回紹介したふたつの句も、全てが放哉の出家後に作られた句でした。放哉は出家前から句を作っているのですが、ナブナさんは出家後の放哉の方がお好きなのかもしれないですね。
ヨルシカのおかげで尾崎放哉の句に触れたのですが、結構面白い句があって、全句集を買ってみてよかったなあと思いました。ブックオフで400円くらいだったと思います。
犬とか雀とか蛇とか蜥蜴とか出てきて、面白いのとか可愛いのとかたくさんあります。あと、なんかシュールなのもあります。
自分は昔に詩集を買ってみたときに難しくてわかんなかったので、詩とか和歌とか俳句とか、その辺を全部ひっくるめて苦手意識があったのですが、俳句はちょっと面白いなあと思えました。