『虚ろな目』
まわりに誰か人がいるとき、わたしは決して彼女を見ることはない。
しかし、彼女はわたしをじっと見ている、
一瞬たりとも視線を逸らすことなくじっと見ているのだ。
すべてを見透かしたような虚ろな目で。
わたしは説明してやりたい、大した問題ではないのだと。
不安になる必要はない、このつかの間の行為はお前以外の誰とでも
出来るものではないのだと。
お前にとってはどうでも良い事でも、私にとってはすべてなのだと。
人は私を先生と呼び、敬意を払い、称賛する。
はじめは嬉しかった。人に尊敬されることに喜びを感じていた。
だがいつからだろう、この自分の立場がとても息苦しいものになったのは。
誰もが私の助言を求め、咳をすれば何か素晴らしい話が聞けると唾をのみ、席を立てば、何か素晴らしい講義が始まると皆立ち上がる。
皆が私の助言を欲しがり、一時たりとも安らぎを与えず、
息をつかせもしない…。
家に帰ってもそれは同じ事だった。
わが愛しい妻子までも、わたしを必要とし、家庭内の問題にわたしの世話や助言を求めてきた。家の主人ともなれば当たり前だろう、だがわたしには安らぎの場が欲しかった。
唯一、わたしが鎧を脱ぎ、安堵できる場所は自分の書斎だった。
ここだけは、じぶんが誰の目も気にせず居られる最後の城だった。
わたしと彼女は、これまであまり良い関係ではなかった。
日中ほとんど家にいない、餌を貰えるでもないこの人間を、彼女はこの家の主だとは認識していなかったのである。
しかし、際限なく耳や鼻をひっつかみ、乗っかってくる小さな人間たちよりはましだと判断したのだろう。
いつからか、私が帰ってくると書斎の角で、絨毯に両の前足の間に鼻先をうずめて眠るようになったのだ。
もう半月ぐらい前にもなるだろうか、この息苦しい生活に苛まれ、書類の山に埋もれながら仕事をしているわたしが目を上げたところに、彼女の目線がたまたま合ったのだ。
その時私は全身に雷を受けたような衝撃を受けた。
とてつもない妙案を思いついたのである。
わたしは誰にも知られぬようにつま先立ちで部屋の入口へ向かい、廊下をそっと確認した後、鍵をかける音さえも気づかれぬようにそっと鍵を閉めた。
わたしの目はよろこびに冴え輝き、これからおこなおうとしている快楽のため両手が震え、
心臓は早鐘を打ったように猛スピードで全身に血をおくっていた。
わたしは足音を立てぬよう彼女のもとにつま先立ちで忍び寄り、そして彼女の二本の後ろ足を優しくそっとつかみ、
手押し車のようにそっと歩かせたのだ。
それが済むとわたしは満ち足りた表情でカチャリと静かに鍵を開け、再び何事もなかったように仕事に取り掛かった。
別に大したことではない、だがあの日から、彼女がわたしを虚ろな目で
見るようになった。
彼女はわたしの狂気を理解している。
子供が遊び半分にじゃれつくのとは違うということを彼女は知っている。だからこそ、あの日以来、わたしが立ち上がるそぶりを見せると、
恐怖から、虚ろな瞳をわたしに向けるのだ。