踊る阿呆に見る阿呆
同じ阿呆なら踊らにゃ損損損……
などという言葉がありますが、私はどうしたって踊らない方の阿呆です。
とある沖縄料理店で突然に演奏が始まり、店員さんが器用にも踊りながら、踊りに参加するよう巧みに誘いにきました。次々と立ち上がり、見よう見まねで少し照れながらも踊り出すお客さんたち。
みんながステージ上に呼ばれ賑やかに踊るなか、席に着いたままの客はわずか2人。そのうちのひとりはもちろん私。同席していた友人たちの踊る姿を激写し続けました。撮影係という役の体で逃げ切ったのです。
学生時代の同窓会で「私、ダンスやってるんだ」というかつての同級生。そうなんだーと言い終わるや否や、彼女はヒップホップ?とかいうダンスを披露し出しました。私は突然の展開に困惑、なぜか私が緊張し「すごい!ダンス上手だねえ!」という感想待ちの同級生を前に、無言で立ち尽くしました。
この、踊る阿呆に見る阿呆…の言葉の意味は、実際に踊るかどうかではなく、その物事に関わるか否かというとこだとはと思うのですが、私にとっては『踊り』というもの自体が不得手なようなのです。
ダンスというものは、身体を鍛錬し、日々練習を欠かさず、己を解放するために、あるいは何かを表現するためになされるものだと思うのですが、私にはどうにもうまく分かりあえません。
EXI○Eという歌とダンスを兼ね備えた素晴らしいグループがありますが、あのダンスでさえジッと見つめていると、ひとつひとつのポーズやニョロニョロのような動きが気になってニヤけてしまい、真剣に受け止められないのです。
『踊り』がまとう、なにかしらの可笑しみ、滑稽さばかりが私の心のなかを埋め尽くしてしまうのです。
なかには本当に素直に、素晴らしいな!という感想を抱けるダンスパフォーマンスももちろんありますが。
この差は一体なんなのか。
私自身が踊り出せば、全てを受け入れられるようになるのかもしれない。
私は家でひとり、踊りました。謎の創作ダンスです。汗をかき、腕を振り回して踊り狂いました。心なしか肩コリも解消されたように思いました。けれどもやはりEXI○Eのダンスを見ると尊敬の念よりも、可笑しみが先にきてしまうのでした。
私と『ダンス』の深い溝はなかなか埋まりそうにありません。
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