レプリカント/ゲシュタルト

ニーア・レプリカントというゲームがあり、そのゲームはプレイしたことがない。(ただ一応購入しているということをここに記しておこう)ニーア・レプリカントのなかではゲシュタルト体とレプリカント体というものに自分が分けられるという経験がされている。
自分はゲシュタルト体とレプリカント体という話が非常に興味深く思っている。どうしてかというと、自分も今生きていて自分がレプリカント体のようなものだと感じる時があるからである。自分はレプリカント化された自分を生きているのであって、自分のオリジナルな欲動や意識を生きていないという感覚がすることがある。
それは今話したのはゲームの話題であるのだが、これはおそらく分身のテーマとして考えられることなのだろう。
社会システムとの関係。
そのように考えられるということなのだろう。
自己というものについて、おそらく自分のレプリカント(これを<私>”とすることができるだろう)と自分のゲシュタルトに分割されているという体験がするのだろう。自分の意識を写すということで、どちらもすることができるのだろう。自分のアイデンティティを複数性のままそれを肯定するということもできるのだろう。どちらが自分のオリジナルな意識なのかということも分からないのだろうし、おそらくこれにはジェンダーの問題が関わっているから難しいと思っている。
自分はジェンダーが社会的・言語的性別だとされているということに着目していて、自分は男性のジェンダーも女性のジェンダーも両方生きているということを感じている。
少なくともあるコミュニティでは完全に男性だが、ある別のコミュニティでは女性的になってしまう(というかそうとしか話せないというのが正確なところ)ということがある。
自分のジェンダー意識のそのような揺れ動きがあるなかで、自分は文章というものが男性の意識であれ、女性の意識であれ、それを写したものであるなら、それは誠実なものであると言えると思われる。
どちらの意識であれ、それを写すことには意味がある。
その両方が混淆されることがあっても、それはその時の自分を写したものであるのなら、誠実である。
自分は、どんな風にして自分の意識を書き出すことができるだろう。
自分の意識の外部化である。エクスポートME.

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