【短編小説】いつかの列車にて
「ああ、煙草臭い」
夜を静かに走る電車の中、俺は言った。
どいつもこいつもスパスパ吸っては灰色の煙を吐いて憂鬱しい世の中になったもんだ。この車両も人は居ないのに臭いが染み付いて鼻が曲がる。
電車が停車し、開いた扉から一人の男が乗ってきた。背広姿の猫背な男。酔っ払っいとは違うふらふらとした足取りで向かいの椅子に座る様子を見て、こいつも臭いなと思った。
「あんさん、せっかく戦争時代を生き抜いたのに不運だな」
男はゆっくりと顔を上げ、俺を見る。
血色が悪く、目の下の隈が黒々としていた。
こりゃあ面白い者(もん)が来たもんだ。
「…ああ、そうかい」
男は喋らない。ゆらりと動き出した電車に身を任せて体を左右に揺らすだけ。
「オイラも煙草吸ってみてぇなぁ」
仕草だけ真似して、臭い空気を吸っては細く吐いた。窓の外はただ闇しか見えない。
『次はー……地獄……地獄……』
壊れたマイクから通されたガビガビの声が行き先を告げる。すると、慌てたように男が立ち上がった。呼吸が荒い。膝から下がガクガクと震え、扉の前で右往左往する姿はオイラが今まで見てきた人間達となんら変わりない。
「なんだ、あんさん。覚悟決まって乗ったんじゃないのか」
面白いと言ったのは前言撤回。どっこいしょと立ち上がり、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ男の肩に手を掛けて、言う。
「ようこそ、あの世へ」
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