物語⑤『1995~小学生時代』
僕の通っていた小学校は、田舎の学校だったため、1年~6年。全て一クラスづつしかない少人数の学校だった。僕の学年は転校などで居なくなる生徒が多く、6年生になる頃にはたった13名になっていた。
それでも学年ごとに見ると、6年生が一番人数が多かった。
覚えがあるので、全校人数は50人にも満たなかったのではないかと思う。
僕は相変わらず少し変わった奴で、通知表にはいつも【落ち着きがない、話を聞かない】などと書かれていた。その他には、【明るい性格、ユーモアがある、人を笑わせてすぐに仲良くなれる】
など、その比率は少なかったものの、ポジティブな内容も書かれていた。
校内の規則には少し変わったものがあり、この事を他の学校の人に話したりすると驚かれたりするのだが、当時学校に通っていた生徒はこれが普通だと思っていて、誰一人異を唱える者は居なかった。
その規則とは、真冬だろうが何だろうが、男子は長ズボンの着用、女子はロングスカートの着用がそれぞれ禁止されていた。寒ければ上衣に何を着ても良かったが、長ズボン、ロングスカートはとにかく禁止だった。それが当たり前だと思っていて、誰も疑問を持たなかったので、今でもその理由は不明のままだ。
しかし、何故か僕は、それに加えて上衣もランニング一枚のみで生活するというルールを自らに課し、実際に4年生の時の1年間は、短パンとランニグのみで過ごした。ちなみに、九州だからといって、冬が暖かい訳でもなく、僕の住んでいる漁師町には北から吹く潮風がモロに当たるので、とてつもなく寒い。
では何故わざわざそんな事をしたのか。変わり者が、20年前の変わり者の事を考えたところで分からない。よって、この謎の行動の理由も不明のままだ。
僕には、こういった自分でも説明できない謎の行動に出る事が多々あったように思う。
その度に人から【変わってる】と言われ、嬉しいはずもないのだが、【普通だ】言われるよりはいくばくかマシなような気がする。
成績はそんなに悪かった記憶は無いが、すこぶる良かった覚えもない。さすがに、小学校も高学年になってくると多少の差は出てきたものの、全くと言って良い程勉強という勉強をしていなかった割には、成績は良かった方なのではないだろうか。しかしどちらにしろ、勉強自体が苦手だった事は確かだ。
運動も得意な方ではなかった。体を動かす事自体は嫌いな訳ではなかったが、当時の僕は、少々体型が豊満な方だったし、運動神経自体も良くなかったので、体を使ったもので何か良い結果を残した記憶はほとんど無い。
こんなにも何の取り柄も無い僕だったが、学校の図工の時間に描いた絵が、何故かいつも何かしらの賞を取っていたのを覚えている。今思い返しても、そして今現在も、絵心の欠けらも感じられない絵を書いてしまう僕なのだが、本当に当時は毎回と言っても過言ではない程賞を貰っていた。
記憶にある中で一番大きな賞を取ったのは、小学3年生の時に【宇宙】をテーマに描いた絵、教育長特別賞という賞を取った時だ。
その表彰状授与の日僕は、理由は忘れてしまったが、学校を休んでいた。
母は朝から仕事だったので、僕は家でTVゲームなどをして一人で時間を潰していた。
夕方になって、玄関を叩く音が聞こえたので、【誰だろう?】と思い、恐る恐る扉を開けると、そこには僕の学年の担任O先生の姿があった。O先生を見たとたんに緊張が走った覚えがあるので、恐らく僕が休んだ理由は、ズル休み、もしくはそこに限りなく近い理由だったのだと思う。
また、家庭訪問以外で、学校の先生が家に来る事など考えにくかったことも、O先生がパワフルな50代女性の厳しい先生だったことも、僕が緊張した一因を担っていたのかもしれない。
しかし、そんあ僕の心配をよそに先生は満面の笑みで話しかけてきた。
「カズ君、具合はどうね?明日は来れそうね?」
「はぁ...た、多分大丈夫です。」
訪問の真の目的を図り兼ねていた僕は曖昧にそう答えた。
「実は今日ね、絵画コンクールの表彰式があって、それでカズ君の絵が教育長特別賞っていう大きい賞取ったとよ!普通の入賞とかやったら明日学校に来た時でんよかったとばって、担任としても自分のクラスから大きな賞が出たら鼻が高いけん、嬉しゅーてからどうしてん今日しらせたかったとよ!
」
と言い、いつもの賞状とそれとは別に、A4くらいの大きさで全体が濃紺のベロア調になっている高級感のあるアルバムのような物を渡された。
見開きだけのそのアルバムの中には、賞状と同じ文言と共に、僕の描いた宇宙の絵の縮尺された写真が埋め込まれてあった。改めて見てもヘタクソな絵だった。
月の上に、宇宙飛行士2人と一匹(?)の宇宙人らしきものを描いた、特に普通の小学校低学年がよく描く絵と何ら違いがないように思える。大した代物でもなかったのだが、O先生の話によると、人間に宇宙服を着せた姿を描いているのが、全国で僕一人だけだったようでそこが大きく評価されたそうだ。そう言われてみると、金賞や銀賞など、他の生徒の絵の中の人間は皆、Tシャツ、短パン姿ばかりだった。
小学校に入ったばかりの頃は母も、こういった賞を僕が取ると自分の事のように喜んでくれ、わざわざ額に入れて家の天井近くの壁に飾ってくれていたが、僕があまりにも何度も賞状を貰って帰ってくるので、母もめずらしく思わなくなっていったのか、この頃はもう特に褒められる事も、賞状を額に入れて飾る事もなくなていた。
「アンタ、頭もそげんよーなかし、足も遅いとなら、山下清んごたる絵描きにでもなるね。」
いつも母は笑いながら冗談混じりに僕にそう言っていた。
僕は確かに小さな頃、あの“野に咲く花のように”が流れる山下清のドラマが大好きだった。
しかし、幼いながらにも僕は、絵を描いて収入を得るという事が非常に難しい事のような気がしていたし、そもそも絵を描く事がそんなに好きな方ではなかったので、志した事は一度も無かった。
そんな気持ちの人間の能力が伸びる訳もなく、高学年になるにつれ、賞を取る数も自然と少なくなり、6年生になる頃には入選すらしなくなっていた。
勿論、そういうマインドで物を描いていた当時の僕は、絵画コンクールの賞が取れなくなったところで何とも思っていなかった。
しかし、芸術の素晴らしさや重要さが少しは理解できるようになった。
今となっては、もったいない事をしたなとついつい思ってしまう。あの頃からそういった感性を磨いていれば、今のこの何も成していない人生よりは少しはマシだったかもしれない。
捕まったあと、同じ部屋の数人でミッキーマウスをお互い描き合おうという話になり、僕も真剣に描いたつもりだったのだが、それを見た同部屋の人間は一言。
「何これ?犬やん。」
と、大爆笑されるくらいの絵心しかない。