百瀬猪木

大反響御礼!【連載】実録!『PRIDE』の怪人・百瀬博教(第6回)

 かつて『PRIDE』のリングサイドには、いつも野球帽を被りサングラスをかけた、通称・「『PRIDE』の怪人」と呼ばれた男が座っていた。作家であり、NPO法人 日本スノードーム協会初代事務局長であり、のちに終身名誉会長となる百瀬博教氏である。

 果たして、一時期の『PRIDE』においてその存在感はひときわ際立っており、百瀬氏なくして格闘技界を語れないほどの人物だった。
 なぜ百瀬氏は『PRIDE』と関わるようになったのか。その謎に迫る、大反響の連載第6回――。

〈前回までの内容はこちら↓〉
《【連載】実録! 『PRIDE』の怪人・百瀬博教の記事一覧


▪︎雨の西麻布

 ここまで書いてきたように『PRIDE』が人気を博するきっかけは、様々な要因が程よい具合に絡み合った結果として導き出されたものである。

 リング上だけの話で言えば、それが高田延彦であり、桜庭和志であり、小川直也であり、藤田和之だったに違いない。もちろん、ヒクソン・グレイシーやヴァンダレイ・シウバといった外国人勢の強烈な個性も際立っていたが、やはり日本で開催する限り、それを迎え撃つ日本人勢が非力であれば、『PRIDE』の隆盛は有り得なかっただろう。

 そして、もちろんそれを支えた関係者の努力は、実はファイターを遥かに凌駕していたのかもしれない。もしかしたら、そういった側面こそもっと評価されて然るべきものなのだと思う。

 そういった第一段階をふまえた上で、2001年から本格的に『PRIDE』の株を上昇させる大きな要因が加わった。

 それが『PRIDE』と『K―1』による本格的な対抗戦である。

 この段階で『PRIDE』の主催者はDSEの森下直人社長(故人)だった。森下社長の右腕には、森下社長亡き後、DSEを率いることになる榊原信行氏。リング上は高田や桜庭といった高田道場勢が主力であり、そして藤田を擁立でき、かつPRIDEエグゼクテイブプロデューサーとして君臨した、アントニオ猪木にもそれなりの権限があったのかもしれない。

 一方、あらためて書けば、『K―1』の主催者は、正道会館の石井和義館長だった。もちろん、石井館長の周辺にも谷川氏らがいただろうが、『PRIDE』と違って、『K―1』の方向性を決定できる人物は、石井館長以外にはいなかったことは明らか。つまりそれだけ石井館長のカリスマ性が際立っていた証拠であり、『PRIDE』に比べ、そのわかりやすさは一目瞭然だった。

「俺が石井館長と最初に出会ったのは、やっぱり前田の時と同じ、西麻布のイタリアンレストラン『キャンティ』だったね。とんねるずの歌った『雨の西麻布』じゃないけど、その日の西麻布には霧雨が降っている夜だったな。こんな夜は、めっぽう肢が美しくて紫色の服の似合う恋人でも連れていれば格好いいけど、わざわざ佐世保から俺に逢いに来ていた女は、10日前に帰っちゃってたからさ、ワーハッハッハッハッ!」

 以下、その内容を一部紹介
▪︎「俺の家に来ない?」
▪︎スノードーム
▪︎ある一人
▪︎背中の傷


ここから先は

3,420字 / 1画像
この記事のみ ¥ 270

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?