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【直撃】「What is NJPW?」(1)元新日本プロレス執行役員・武田有弘氏編「年商40億円のnWoブーム!」

 いわゆる暗黒期を脱し、独走中といわれる新日本プロレス。その新日本プロレスにおいて、最近まで執行役員を務めていたのが武田有弘氏である。一世を風靡したnWoブーム、長州力×大仁田厚戦、武藤敬司らの全日本移籍、桜庭和志参戦……、これらの事象には、実は武田氏の存在が不可欠だった。果たして、新日本プロレスとは何か? その謎を解くための鍵を探すべく、話を訊いてみた――。(聞き手◉“Show”大谷泰顕/2016年11月24日、都内カフェにて収録)

《【連載】What is NJPW? の記事一覧


▪︎覚えているのは、猪木×国際軍団の1対3


――今日は元新日本プロレス執行役員の武田有弘さんに、「新日本プロレスとは何か?」を語ってもらおうかなと。

武田 そんな何も語れないですよ。

――いえいえそんなことないと思います。まず最初から聞いていくと、入社はいつだったんですか?

武田 新日本がUインターと全面対抗戦(95年10月9日、東京ドーム)をやる数カ月前ですよ。

――あの10・9の前ですか!

(⬆︎DVDマガジン『燃えろ! 新日本プロレス』で最も売れたとされる、あの10・9)


武田 10・9の勝利者トロフィーを持ってリングサイドにいた記憶があるから、たぶんその年ですね。だからその年の春だったかなー(5月3日)に福岡ドームで大会があって。

――『レスリングどんたく』in 福岡ドームという大会でしたね。

武田 僕は九州の人間ですから、その福岡大会を手伝うのが最初の仕事でした。それこそコピーをとったり電話番をしたり雑用だけしかできなかったですけどね。宣伝カーを回したり、ポスター貼りをしたり。

――ポスター貼りって福岡の飲食店とかに頼んで貼ってもらうとか?

武田 その時は電柱とかに貼っていましたよ。駐車場の金網とか。

――それはアリなんですか?

武田 厳密に言えばダメなんでしょうけど、その頃はやっていましたね。今は知らないけど。もちろん、大会が終わって剥がすのが前提ですね。

――勤務地は福岡ですか?

武田 そうですね。今は会長の菅林(直樹)さんが営業担当で入っていて、福岡事務所があったんですよ。そこに毎日通っていましたよ。アルバイトみたいな。

――そうなんですね。そもそも子どもの頃からプロレスは好きだったんですか?

武田 小学生の頃は見ていましたよ。小3くらい。

――その頃は誰が好きだったんですか?

武田 それはやっぱり猪木さんでしょうね。タイガーマスクとか。

――ホントに!? 武田さんからまったくそんなイメージは湧かないのに。

武田 国際軍団と1対3とかやっていた頃ですよ。みんながよく話す、モハメッド・アリ戦(1976年6月26日、日本武道館)とかはまったく記憶にないですね。その頃はビデオもそこまで普及していなかったし、DVDもスカパー! もネットもないからリアルタイムで見るしかないじゃないですか。

――そういう時代でしたね。

武田 だから確実に見ていた記憶はないですけどね。その後は田舎にいたからプロレスと関わることはなくて、大学生までプロレスを観なくなっちゃいましたから。

――間が開くんですね。大学でプロレスをまた見始めたと。

武田 大学が福岡だったから、そこでまた見始めて。その時は三銃士(橋本真也、武藤敬司、蝶野正洋)、馳健(馳浩、佐々木健介)ですね。リングスも福岡国際センターまで観に行ったことがありますよ。

――リングスに誰が出ていた頃ですか?

武田 ディック・フライとか。ヴォルク・ハンが出ていた気がしたなあ。

――そこから、どういう経緯で新日本に入ることに?

武田 僕の知り合いに、上井(文彦)さんを知っている方がいて、そのつながりで入りましたね。

(⬆︎長州力オフィシャルブログにタイガー服部氏と一緒に登場した武田氏)

以下、その内容を一部紹介
▪︎福岡ドームは狭い
▪︎年商40億円のnWoブーム!
▪︎「プロレスLOVE」ポーズが生まれた経緯


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