見出し画像

【探求】「生命(いのち)」とは何か?「家族愛」とは何か?〈後編〉

 ついに『熱血道』開幕! その初陣を飾る記事はまさかの内容!? その命題は、生きとし生けるものすべてに突きつけられる「死生観」。果たして「猪木とは何か?」ならぬ「生命(いのち)とは何か?」について考えます――。


〈前回はこちら⬇︎〉
【探求】「生命(いのち)」とは何か? 「家族愛」とは何か?〈前編〉


▪︎9・25『RIZIN』当日

 猫の容態が安定しないまま夏が過ぎ、9月に入りました。するとステロイド薬の投与を含め、治療の甲斐があったのか、6月以来、連日減り続けてきた体重が「誤差の範囲内」(獣医師)ながら、ほんの少しだけ持ち直したのです! さらに少しずつ活動範囲も広がって、階段を上り下りしたり、動ける時間が増えていきました。

 もちろんV字回復などは見込めるはずもないのはわかっていても、これにはほんの少しの、かすかな希望が芽生えた気がしたのは事実。「頑張れ! この調子!」。久しぶりにひと筋の光明が見えた気がしました。

 ところが、そう思ったのも束の間、体調が悪化し、ある時は夜中、猫の嗚咽の音に飛び起きて、背中をさすってやることしかできない自分の情けなさにまた、頭を抱えてしまいました。

 その翌日からしばらく、酸素室に入れたままの状態が続いたのだけれど、酸素室の居心地が悪いのか、目を離すと酸素室から出てしまうし、出てしまえば何かの拍子に嗚咽(おえつ)が始まる。だからと言ってトイレで用も足したいだろうから、酸素室に鍵はかけたくない……と、ぐるぐる考えていると、自分にも自然と睡眠不足のため睡魔が襲ってきます。

 当然、思いは四六時中、猫のことで、猫といたいのだけれど、取材や打合せ、会見などで外出することも避けられないだけに、その時のドキドキ感とハラハラ感は尋常ではない。移動のために電車に乗ると目的の駅は平気で乗り過ごすし、頭が回らないから会話がぎこちなくなるし、どこか全てが上の空だったことでしょう。

 小さなカラダの猫ですらこの有様なのだから、人間が相手だったらどうなってしまうのだろう……。思わずそんな不安が脳裏をかすめていく。

 しかもこの頃になると、ようやく帰宅してスポイトで食事を流し込んでも、それがきっかけでまた嗚咽(呼吸困難)が始まってしまうことが見られるように。猫からすれば、その日の体調によっては、食べると気道が塞がってしまう場合があるのだろうから、苦しくて息ができないことにもつながります。

 かといって何も食べさせなければ、さらに体重が減って、どんどん体力がなくなってしまう。実際、9月は第2週に入った頃、病院で体重を測ると、ついに2kgを割って1kg台に突入してしまい、たまに酸素室から出して目を離していると、布団の上に粗相をしているのを見つけてしまいました。

 結果的にこれは一度だけで済んだものの、トイレにまで歩ける体力がなくなったのか、もしくは痴呆症のような症状が出はじめたのかと、さらに思い悩む時間が増えていく飼い主の自分。目ヤニや体毛によるフケのようなものが増えはじめたのも、おそらく体内の水分不足が原因なのに違いない、と推測してみたりはしても、これ以上、打つ手が見当たらない……。

 それでも飼い主としては、「目にまだ生気が残っているから」と精一杯の親バカぶりを発揮させてはみたものの、現実には小さなカラダを震わせながら嗚咽を続ける場面に直面すると、「どうした? しっかりしろよ。大丈夫大丈夫」と口にしながら、お互いの顔を近づけて全身をさすってやりつつ、酸素室に放り込む。自分のしてやれることはこれしかないのです……。

「何があってもおかしくないと思ってください」
 9月に入ってから、週に2回行なってきた皮下点滴を受けに、近所の動物病院に出向いた際、診察前の体重測定と直腸温度を測るための体温計を猫の肛門に入れていたところ、いきなり猫が痙攣を起こし、瞳孔が開きっぱなしになってしまったことがありました。『RIZIN WGP 2016開幕戦』(9月25日、さいたまスーパーアリーナ)の開催される3日前にあたる、9月22日の夕方のこと。

 幸いにしてこの時は、なんとか持ち直して自宅に帰り、急に寒くなったからと、出したばかりのコタツに入れると思いのほか気に入ったのか、しばらくすると頭だけ出して、とりあえず生気を取り戻したように見えるまでには回復したのだけれど、さらに覚悟を持って当たらないといけないのだな、と思わされた日でした。

 ちなみに9月25日の『RIZIN WGP 2016開幕戦』当日は、朝9時半頃には動物病院に行き、皮下点滴だけ受けさせて、食事は取らせずに自宅を出ました。変に食べ物を口に入れると、それがきっかけになって呼吸困難が始まってしまうから。自分が現地であるさいたま新都心に着いたのは正午を少し回った頃だったと思います。

 もちろん、頭の片隅には猫のことが残ってはいるものの、この日ばかりはそうも言っていられない。今思えば、猫が精一杯の気を遣って自分に迷惑をかけぬよう小康状態を保ってくれていたような気もします。

 実際、容態がいつ急変するかわからないと思いながら、急変したとして病院に連れて行ったところで劇的な改善策がないのもわかっており、ではどうするのが得策なのか。病院よりも自宅にいるほうが小康状態だけは保っていられる。他の猫の場合はともかく、少なくともウチの猫の場合はそんな気がしておりました。

 ともあれ、場合によってはこれ以上、苦しそうな状況が続くのであれば、「安楽死」という猫の意思には関係のない「悪魔の選択」までも視野に入れないといけないのかもしれないけれど、苦渋の末にその選択をしたとしても、意識のあるうちは対象にできないと断られるケースがあるとか。

 当然のことながら「安楽死」なんて絶対にさせたくはないし、させる気もないのだけれど、タイミングを逃してさらに一層、動物を苦しめてしまう結末に至り、後悔するケースもあるらしく、要は「悪魔の選択」ですら容易なものではないことも認識しておかなければならないわけです。

 たかが猫とはいえ、されど猫。自分にとっては祖母や親父といった思い入れのある親族を亡くした時と、もちろん大きく違うのはわかった上で、それでも似たような感覚を持ってしまう自分がいる。
 しかも、猫にとって何が正解なのか、と考えることすら、もはや単なる人間のエゴでしかないのかもしれない。

 ただ、こんな自分と縁があった猫に対して、この後、何がしてやれるのか――。

▪︎ヒーラ細胞

 少し話が逸れてしまうけれど、人間の小児麻痺などの研究に劇的な効果があり、クローン羊を生み出し、ヒトのES細胞やiPS細胞の研究にも非常に役立ったとされるヒーラ細胞は、1950年代にアメリカに住んでいた、ヘンリエッタ・ラックスという黒人の女性から「勝手に」採取された細胞を使って培養され、現在までの間に5,000トンの培養がなされているという話があります。

 これに関しては、もちろん「勝手に」という部分が大問題なのだけれど、その頃にはまったくそういったルールがとくに黒人に対しては存在しなかったのだとか。わずか70年前に満たない頃の話です。そのためヒーラ細胞は、遺族にはその存在する知らされぬまま、いつのまにか巨額を生み出す商業的な細胞ビジネスに利用されていきました。

 結局、アメリカの医学界と遺族が協議の場をもち、一定の条件下でなければヒーラ細胞が使用できないと決められたのは、つい最近の話だそうです。

 ちなみに、医師が患者と向き合いながら、手術や治療を行なっていく「インフォームド・コンセント」は、医師の説明と患者の同意を意味するのだけれど、これも日本に導入されたのは1990年代からであり、現在は「インフォームド・チョイス(医師の説明と患者の選択)」という言い方に変わって、患者に対して「同意」を求めるのではなく、患者自らが「選択」することによって、治療や手術が行なわれていくことになっています。

 もちろんウチの猫に関しても、病院にて「インフォームド・チョイス」が飼い主である自分に行なわれ、それを真摯に受け止めながらここまで来ました。何度も書くように、それが猫本人(猫本猫?)の意思かどうかは別にして。

 さらに、少し飛躍した物言いをするなら、この国はたまたま戦争がない状況が70年以上続いた、非常に幸運な国。ただし、それが努力もなしに永遠に続くと勘違いしてはいけないし、なまじ戦争体験がないだけに、そして自分の話で言えば一連の震災でも大きな被害を受けていないだけに、「死」と接する、裏を返せば「生」と向き合う機会がそこまで多くない人生を送ってきてしまったのが実情。

 そう考えれば、今後もまた、人生にはさらなる大きな波が次々に襲ってくることもあるとしても、その都度、何が正解なのかと悩みながら、それでも「生命(いのち)とは何か?」について、また、「生命(いのち)の尊厳」について真摯に向き合わざるを得ない機会が得られたことにまずは感謝しようと言い聞かせる。
 
 実際に猫に対してしてやれることを除けば、そのくらいしかできることがないのだとしても、人間の無力さを思い知らされたのであれば、それはそれで貴重な体験に違いないのですから。

 現段階での本音を言えば、自分はこの後、愛玩動物(ペット)を飼うことはないと思います。確かに「癒し」や「励み」には劇的な効果があるのかもしれない。実際、某大学の研究では、ペットと目を合わせたり撫でたりすることで、幸せホルモンと呼ばれる、オキシトシンが飼い主に分泌されることが明らかになっているそうです。

 だからこそ余計に、ペットが健康を害した時や、その先にある別れがツラすぎる。可愛がれば可愛がるほど、一瞬たりとも苦しむ姿を見てはいられなくなる自分がおるのだから。たとえそれが、生きとし生けるものの「運命(さだめ)」だったとしても。

以下、その内容の一部を紹介
▪︎スースーとゼーゼー
▪︎ありがとな…。


ここから先は

4,675字 / 2画像
この記事のみ ¥ 270

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?