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【小説】 渡し舟〔1〕

 帰りたい。帰りたくない。雨垂れの港からポンポンと舟が出ていく。それはみすぼらしく、晴れやかに出て行った。その先には霞んだ人影が。手をこまねいて笑顔で向かっている。微かに悴んだ手を差し出すとフワリと消えてしまった。何より驚いたのは足が地につかず空いていたのだった。それは僕だけでなく、その笑顔の男性もそうだったのだ。夢か現実かわからない。その世界で、必ず捕まえたいと思うものがあった。それは第三の世界。果てしなく続きそうな、そう三面鏡の合わせ鏡のような世界だ。果てしない、でもどこか限りがあるような世界。遠くに映る自分が自分でないような、どこかで変顔をしているような感覚。考えて感じるものではなく、限りなく現実に近い手触りがしたもの。まだ誰もが触れたことのない世界。だけども誰かが必ず触れた世界。なぜならこの長い歴史の中で、第三の世界に迷い込んだ、いや紛れ込んだ先人たちがいる。みっともない姿で追いかける僕の姿が合わせ鏡の奥に吸い込まれていく。現実は実は現実でなかった。しかし夢のような現実。そんな不思議な現象はあの港から始まったのだ。
 神奈川沖浪裏のような激しい荒れ狂う波のなかで僕は呼吸ができなかった。吐き出したものは波の中に消えていった。気がつくと見たこともない島に辿り着いた。これからの人生を考えていた頃だった。妄想の中にあった島だった。そんな気がした。それでもしかと地面を感じるのだ。反発は半端なく地に足をつけるのが難しかった。流れ着く先は選べない。そう思っている人もいるが、実は自分が選んでいる。無意識の中で。目に見えない世界で。心配そうに眺める現実の僕は昨日から動けそうにない。絡まり合った糸は簡単には解けない。皆がわかっていながら、こんがらがって苦しむ。しかしまだ解ける方法がわからないでいる。それを解くために生きているのかも知らない。少なくとも僕はそうらしい。
 グツグツと煮詰まった妄想の塩を舐め、何とか生きる身体が成り立った。教えられてきたことは何も役に立たなかった。むしろ邪魔になるほどだった。ただ単に頭が重かった。頭が地を這いまともに歩けない。僕は何なのだろう。生物ですらないのかもしれない。不自然なこの姿を見ても嘲笑する者もいなかった。それが寂しかった。あれだけ人目を気にしていたのに。なんだか涙が出そうになった。それでもその涙の水分さえ勿体無かった。
 頭を引き摺りながら、島を回る。今度は足が浮き空を飛んでいるようだった。頭の重さも少しだけ軽くなった。何もない島で僕は飛べない鳥になったのだ。誰からも知られず、生きているのも伝える術もないこの島で僕は何を思うのか。これから先が未知すぎて怖かった。渚に打ち寄せる海藻のようにただゆらゆらと、波に身を任せて生きていければいいのに。と思った。その束の間、島の奥から何かの鳴き声が聞こえた。低いガラガラのうめき声のような唸り声のような。言語では表せないその声は今も耳から離れない。しかし僕は存在しなければいけなかった。そんなの信じたくなかった。でも確かに身体と心を感じてしまうのだ。何ものでもないくせに何ものかであるのだ。自分でも理解できずに何も考えたくなかった。あるのは目の前のこの世界。だけど飛び乗りたかった。いつか見た渡し舟に。
 そんな浅はかな希望も波音にかき消され前に進むしかなかった。軽くなった頭を持ち上げ前を向く。前を見るのはこんなに大変なことだったのか。意識だけが前に進む原動力となった。少しずつ前に浮かび上がりながらトントンと足を所々つき、ゴタゴタした石が敷き詰められた海岸を海に沿って進む。なにか使えるものや食べるものがあればと考えていたが、そう簡単には何も見つからない。それどころか流れ着くはずの人工物がどこにもない。あるのは一面ゴツゴツした岩と石だけ。見つけたのは岩にへばりついた貝のような生物だった。それを生きるためにチュウチュウと啜った。ただ塩辛かった。喉が渇くのも時間の問題だと察した。
 今度は水を求めて内陸部を目指した。川があれば生きていける。岩場を上がると低い崖が現れた。それをよじ登ろうとするが、頭が重くて簡単ではなかった。何のための頭なのだろうと思った。ただ胴体と足があればいいとさえ考えた。その時フワッと身体全体が浮き上がり崖に上がった。疲れてゴロっとその辺の短い草むらの上へと仰向きに寝転がった。空は青かった。雲はなかった。太陽は感じない。でもなぜか明るかった。その明るさが虚しく心を照らした。何も考えずにいられたら。でも崖から見る世界は広く、遠くに何も見えなかった。果てしなく海が続いているだけだった。だが絶望はしなかった。これまでも闇を歩いてきたから。先の見えない明かりの見えないトンネルの中を。海風の匂いを感じて我に返った。返る我が身があった。


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