見出し画像

PLEASE PLEASE EVERYONEの執筆

9月から10月中旬まで、私は次回公演の上演台本を執筆していた。2時間の芝居を描くのに、トータル半年ぐらいかかった。最初の数ヶ月はほぼアイディア出しに終わった。アイディアが自由に出たところで、9月の1ヶ月で構造を決めて、セリフを書いたのは10月の最初2週間。この2週間は朝6時から夜8時までファーストフードを渡り歩いたりした。家族にずいぶん迷惑をかけて書いた。仕事仲間にもおそらく迷惑をかけまくっていたと思う。でもおかげさまで第2稿まで仕上がった。まだもう少し修正は残っているが大きな枠組みは割と定まったので、私としては書けたも同然だ(本当か!)

これは、実話をもとにしたファンタジーである。実話というのは自分の子供の通う保育所の話だ。この話は語りだすと長くなるしもはや誰が正しくて誰が間違っているかという話に矮小化したくないので端折る。私はこのことについて、一体自分がどう考えているのか。そしてこれは一体なんだったのかを知りたいと思って執筆することにしたのだ。劇にすれば何かがわかるかもしれないと思った。ただ、自己満足なものにしたくなかったので、これを書こうと決めた2020年の秋に、歌と踊りを入れます!と宣言してそのように助成金を申請した。歌と踊りを入れたら自己満足にならないのかどうかは知らない。

もともと私はそういうことのために演劇をやってきた。私の中にある渦巻くものが何なのか確認したくて書いて、稽古して、上演してきた。若い頃は本当に色々大変だったのだが、演劇のおかげで結構性格がマシになったと思っている。演劇関係者を巻き込んでのカウンセリングだったかもしれない。正直、お客さんには迷惑だったかもしれない。

年を重ねるにつれて、そういう書き方をしなくなってきても大丈夫になってきて、ここ10年は自分の話ではなくて全く別の話を書くことで回り回って自分に返ってくるような、そんな創作をしてきた。外部で創作させてもらうことが増えたのも大きかったと思う。おかげで私は私を、虫眼鏡だけでなく、宇宙から見下ろすことができるようになった。少しね。

で、ここ数年、保育所のこと(以下参照)があって

これは絶対に演劇にせねばと久々に燃えたのである。面白いもので、執筆に取り組むまで、正直、私はあまりショックを受けていない、と思っていた。当事者家族ではあるものの、私自身のことはどうでもいい。でも他のお家のことを考えて活動している。そう思ってきた。実際、会議や議員周りは結構頑張ったが頑張ればがんばるほど痛みを忘れ「いやうちは大丈夫です。なんとかなります。でも他のお母さんの中にはなんともならない方がおられます」というようなことを周囲に漏らし始めていた。

でも執筆してみて、わかった。私は結構、傷ついているようだ。

それを自分自身にすら隠していたのは、娘ではなく私が悲しいと感じていることに引け目を感じていたからなのだ。

私はそういうのが苦手なのだ。親が先に子供の感情を決めつけて口に出してしまうようなこと。自分がそれを息を吐くようにやってしまうからこそ嫌で、親にもそういうこともされたくないとずっと思ってきた。今回の保育所の件で、子供たちがかわいそうだ、と思う自分が、嫌で、「なんとも思ってませーん」みたいなふりをしてきたのだと思う。だって本人じゃないんだもん。保育所に通うのは私じゃなくて娘なんだもん。

でもこの台本を書いてみてわかったのは、私は娘どうこう関係なく、あの保育所の部屋の明かりが、一つ一つ消えていくことが耐え難く辛いのだと気がついた。私が保護者として、悲しいのだ。私が保護者として、辛いのだ。毎年新しい乳児とすれ違えなくなること。乳児をお世話したがる娘に会えないこと。たくさんの子供たちの声がだんだん、人数が減ることによって小さくなっていくこと。建物が真っ暗になって、一人ぽつんと遊ぶ娘。全て未来の予測なのだが、予測して、悲しくなる。

一つ注意しておきたいのは、今回のこの事件の争点は仕組みである。保育環境として、娘に同級生がいないことが問題なのであって、あるいは7時から7時まで預けられるこの保育所でないと困る保護者がいることが問題なのであって、またきょうだいと同じ保育所に通わせたいのにそれが叶わないことが問題なのであって、さらにいうと避難訓練ができていないような保育所に移管されそうになってきたことが問題なのであって、そのことを保護者会はずっと訴えてきたし、そのことを京都市は「でもお金がないので仕方がないんです」と言い続けてきた。だから感情の問題に矮小化して巻き込まれていたのは私だけであることをあえて記しておく。

かわいそうだからなんとかしてあげてよ〜という話じゃないのに、私は娘を思って勝手に同情し、かわいそうと思い、そう思っている自分を抑圧していた。またテレビや新聞の取材を受ける時も、当事者としてはやっぱり感情に訴えかけたほうが良いよね、みたいなことも思ってしまっていて、そう思う自分がまた嫌で、こっそり「別に私はいいんです」とあえて発語していた。いやいや、そりゃ感情はコントロールできないから湧き上がってくるものは仕方ないのだが、「私は別にいいんです」って何やねん。お前は誰やねん。娘本人かよ。と思ってまた嫌になっていた。

執筆して、改めて思う。この話はやっぱり、感情の話にしてしまってはいけなかった。自分では助けを求められない弱者が、それでも健やかに穏やかに過ごせる環境を作るのは、行政、市民のミッションであり、ポシブらねばならないことだ。そしてだからこそ、とあえていうけど、娘の代弁を私がしてはならないと改めて思った。私は私であって、彼女ではない。仮説に過ぎないけど、そこが各々の保護者の中で整理され切っていなかったから、保護者同士の争いが起きてしまったのではないか。と思ったりした。もちろん仮説です。もう終わったことだからわからない。でも、そういう考えが、執筆によって自分の中でメリッと顔を覗かせた。

ただ、ただですよ、子供と自分を同一視する親が一定数いることは、ほぼ避けられないのではないかと思っている。というかそのおかげで子供の命が守られることもある。実際。だからそのこと自体は、悪ではない。むしろ抗い難い自然なのだと思う。でもそれが子供の感情を勝手に代弁することにつながってはいけない。私たちは他人である。それぞれ別の人格を有していることを、決して忘れてはならない。

私たちは偶然、出会えた子供を、お世話をさせてもらっている。お世話をすることで成長させてもらっている側である。そのことを絶対に忘れたくない。

まあそういう、有象無象いろんなことが込められた台本が仕上がりました。

これがたくさんのスタッフ・キャストによってエンタメになって立ち上がって、多くの人に届けば良いと思う。楽しんで観てもらって、終わって考えてもらえたらなお嬉しい。

ここから本番までの1ヶ月半、全力で作っていきます。エンタメに仕上げます。私の子供の通う保育所で起きたことをご存知の方もご存知でない方も、関係なく楽しんでもらえるものになりますように。みなさま是非お誘い合わせの上ご来場ください。

損はさせません!詳細・ご予約はこちらから↓




いいなと思ったら応援しよう!