けっこん式へいく

友達の結婚式へ行く。実は友達の結婚式というのは初めてで数年ぶりに会う人が沢山いると思うだけで恐縮するのだが、それでなくても何もかもが初めてなので祝儀袋を繕うことやその祝儀袋を持ち運ぶ専用の入れ物があることやドレスなどの身なりをそろえること、ピン札を出せる両替機がどこにあるのか、美容院で髪を切る以外の予約を入れるなど、調べることと普段やらないことが目白押しでこの1ヶ月ほどは気がそぞろだった。何よりそういうひとつひとつの守るべき体裁を自分の失態によって崩してしまい友人の結婚式という完璧であるべきものに綻びをもたらしてしまうことが恐ろしかった。結婚式あるある話などは友人からもよく聞いており、へぇそういうものかと思っていたが、改めて自分ごととして体験するとこんなにも色々な準備が必要でそれをやってのけている皆々へ、どうして言ってくれなかったの、と裏切られたような気持になる。

人生で初の「ヘアセット」の予約で美容室に行き、事前に調べまくった末に気合いの入りすぎず地味でもないちょうど中間点と見極めたヘアスタイルのスクショを担当の方に見せ「大体こんな感じで」と依頼した。8割くらい仕上がってきた頃に思ってたより気合の入った雰囲気に思えて「ああなんかもっとスッキリとシンプルな感じにすれば良かったかな…」とかしょぼしょぼ考えた頃に店内でヴァン・モリソンの"Days Like This"が不意に流れてきた。"そんな日もあるさ"と肩にとんとんと語りかけほぐしてくれるような、はにかんで笑いかけてくれる、そんな暖かい眼差しを受け取り「まあ、いいか、次は別の髪型で試せば」という気持ちになってよかった。

そんなこんなで終わってみれば結婚式は大変楽しかったのである。友達が嬉しそうにドレスを着ている姿やその親戚が喜んでいる風景を見て良かったなと思ったし、久しぶりに会う友達はみな変わっていないように見えて、それでいて大人でもあり、少しずつ色々な人と会話を交わして楽しいまま終わった。なんというか、学生の頃に言葉の端々に散りばめられていた「いきり」とか「ハスり」みたいな棘が時間の経過でまぁるくなり、ちょっと立ち話する分にはお互いに楽しく過ごせる会話術を身に着けているというか、結局はその方がお互いにとって良いよね、ということをこの数年の社会人生活で身に着けていた我々だった。二次会へ行けばもっと込み入った話になって、棘の片鱗ぐらいは出てくるだろうが、名残惜しいくらいで楽しい気分のまま終わらせておくのが良い気がして帰宅した。

結婚という制度についてはもちろん色々思うことがあり、その契約を神聖な憧れとして捉えることには抵抗がある。それは楽しい結婚式に参列しても変わらない。だけど、こうして目の前で本当に嬉しそうにしている結婚する2人、その周囲の人たちを見ると、その幸せは誰がなんと言おうと「本物」なのだと思う。心からおめでとうと思う自分の気持ちも本物だ。でもその幸せは、同性婚はできないから異性愛者の特権であるし、結婚それ自体はしなくても幸せといえるし、この制度が守られることによってこれを獲得できない人々が不幸だと感じるのならばそんなもの初めから無くしてしまえ、とも思う。おめでとうと思う気持ちと結婚それ自体への不信、どちらがとうとかではない。どちらの思いも同じ人間に同時に存在する。

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