金の国 水の国を見ることができました
相変わらずあまり映画を見ることができていないのですが、なにせ前回の映画観賞が一年以上前でしたから、久々に映画館に足を運びたくなっておりましたところ、岩本ナオさんの「金の国 水の国」が映画化されていることを知ったので、色々考えた末に劇場に足を運んでみました。結論としてとても良かったです。
色々考えた…の内実なのですが、普段あまり映画やアニメを見てはいないたこともあってか「せっかく原作に好感をもっているのに、アニメ映画化されてしまうことで失望してしまうのではないか」との怖れがあったのです。
「金の国 水の国」は数年前に原作を購入し、満足はできたものの、ところどころに微妙なもやもやがあって、色々考えた末に自分の中でもやもやは沈静化できて好感を持つに至ったのですが、映画化ともなると話が別になります。そのもやもやが解消されないまま、全く別種のもやもや「原作のほうが面白いのに…」が生まれてしまうのは避けたいところ…というのが、当初の正直な気持ちでした。
以下では、原作に感じた微妙な「もやもや」を記述してみます。
原作の導入では、昔々…の「おとぎ話」のトーンを持ってきて物語の背景を説明していらっしゃるのですが、重要な背景である2つの国の諍いに対して「仲裁に入った神」との表現があるのですね。あくまで「イラスト」ではあるのですが、ばっちり人格神としての神の姿すら描いている(しかも目線に黒塗りまでしており戯画化が過ぎる)。
これはまずい。
「神の姿を描くこと」自体がまずいわけではないのですが、おとぎ話だとしても国家間の具体的な講和に「神」が介在すると表現してしまった以上、
「これは神託の直接的な表現ってことで良いの?」
「この神は一神教の神?(だから目線を入れているの? それはちょっと…)」
「神を登場させるのならこの世界の宗教的バックボーンもある筈…」
「そういう宗教的描写がまるで無いのに、なんで冒頭にだけ人格としての神様の姿を登場させたのか余計にわからないよ…」
との疑問が私のような一部の読者には浮かばざるを得ません。
無論、それらに対する回答を著者の方が持ち合わせている必要もないのかもしれません。多分、これは編集者の方が気にかけるべきことのような気がしています。
「(表現されている世界に)神はいるのかいないのか」
表現物の中の「意図していない宗教性」を見かけるたびに、そんな事が一々頭に浮かんでしまう私や私以上に面倒な思考をお持ちの方々は、商業ベースでは無視して差し支えない存在と多くの方々に判断されてしまうのは仕方ないことなのですが、それでも確かに存在している以上、そういうめんどいのがうっかりコミックスを買ってしまうと、その点を「安易なんじゃないのかなあ…」と判断されてしまうのもやむを得ないことだと思います。
この話題で引っ張ると完全に横道に逸れてしまうのでこれ以上は控えますが、つまりこれは作品として「傷がある」状態です。
そして残念ながら原作にはこのような傷が各所に見当たるのも事実です。
婿入り嫁入りの説明がやや端折り気味で、私なんかは「婿入りするカップルと嫁入りするカップルの2カップルが存在する前提である」と理解するまでかなり時間を要しましたし、両国の指導者が互いに戦争を前提とした挑発(犬の婿入り猫の嫁入り)を働いているにも関わらず、悪役である右大臣の手駒の私兵を除いて軍隊の描写があまりにも希薄(クライマックスで軍備増強が示唆される程度)です。
また原作では舞台となる二つの国を「A国・B国」という記号で表しているのですが、おとぎ話的な仕掛けとしては理解できるものの、それぞれの国の民族衣装や建築様式等の文化的描写がかなり具体的なので「ファンタジーなんだろうけど、いろんな生活形態が混在しているこの状況でAB呼ばわりもなあ…」と、収まりが悪く感じてしまいます。
思うに著者の方はこの作品を現代的なおとぎ話として企画されたのでしょうが、おとぎ話にせよ共感を得るための世界観の作り込み、つまり細部の詰めに甘いところがあるとは思ったのです。
ところが、一部の世界観の詰めが甘かろうが辛かろうが、恐ろしいことに原作作品を最後まで読むとものすごく面白かったのです。
これは厄介ですよ。
自分が面白い作品に「傷がある」と感じていることで、却って「でも私はこの作品の真価を知っている(だから余計に面白い)」と感じたことはありますでしょうか。私はしょっちゅうあります。
作者の方は全知全能ではないので、当然、自身の作品にはどうしても記述が及ばないところがある、それは仕方のないことです。でも、たとえ拙い表現があるとしても、自身の得意とする表現分野をしっかりと描き切ることで、傷にも見える拙い表現が、却って読者にとっては「自分だから理解できること」というキラキラした輝きに見えてくるのです。
作者の方はそこまで計算して描かれていらっしゃるのでしょうか。
多分、そうなのではないでしょうか。
漫画家の方というのは恐ろしいものです。
映画館の席に座って私が考えたことは
「まあ私の感じるもやもやがそのままアニメになったとしても、そんな面倒くさい事を考える人間はめったにいないので当たり前だということを受け入れよう。今回の制作(マッドハウスさん)は非常に評判がよろしいので、きっと美しい画面が見られるぞ(その通りでした)、楽しみにしよう」
大げさに言えば覚悟を決めたわけですね。
そして映画が始まったのですが…。
まさか私の感じる「もやもや」を、ほとんど最初に叩き潰してくださっているとは思いもしませんでした、すごいよマッドハウスさん。
以下は映画版の詳細を含むのですが
まず、冒頭のシーンで舞台となる二国に明確に名前が与えられます。
おとぎ話感を減退させるかもしれませんが、リアリティを感じるためには必要不可欠な演出だったと思います。
そして「神様の仲裁」表現は一掃されました。
作劇上の重要条件である「婿入り嫁入り」はあくまで国家間で交わされた協定によるものとされたのです。
無論その協定は神託によるものかもしれませんが、それは見る側が想像を膨らませれば良いことです。「見る側がどんどん世界を作っていけば良い」と私の大好きなアニメ「ヘボット!」でも言っていたと思います。
そしてこれもおとぎ話感の減退になるのかもしれませんが、二国間の不幸な戦争のシーン(と「壁」を築くシーン)も簡潔に見せてくれました。戦争を避けるべきもの、忌避するべきものと描くことはこの作品の重要なテーマになるのですが、具体的な映像で描かれることで必然性が増す結果になったと思います。
作品上の重要と思える演出を、原作の世界観を損なわない形で、おとぎ話としての語り口を交えながら数分で紹介していく…、わずか数分の冒頭シーンでのマッドハウスさんの職人的な手際の良さに私はすっかり感動してしまいました…。
冒頭の数分で「ああ、これなら安心できる、後は物語を楽しむだけだ」と信頼感を抱くことができたのは、本当に久しぶりのことでした。
結論として本当に良い映画だと思いましたので、多くの方が見ることができれば良いと思います。
主人公の二人は紆余曲折を得て、最後に思いがけない幸せを手に入れるのですが、それは決して幸せなカップルとなるだけのことではありません。
最後に彼らは世界を手に入れます。
望ましい未来としての世界です。
そしてそれに至るまでの、一つ一つの要素の、なんと弱々しい事実の積み重ねがあったことでしょう。
もしもあの時、
女性が猫の名前から人柄を見抜くことができずにいたなら、
男性が自らの夢を心に抱いていなかったなら、
姉が妹の価値を値踏みできずにいたなら、
女性が権威にも臆せず対峙できていなかったら、
私兵が自らの義侠心に駆られなかったら、
そして王が娘の幸せを望まなかったなら、
あのラストに辿り着くことはできません。
トランプカードで作ったタワーが絶妙なバランスで成り立っているように、物事の成否も一つ一つは偶然としか思えないようなタイミングでしか成り立っていないのだなあと改めて感じることができました。
実のところ、大好きな作品ではあるのですが、「もやもや」がなくなりきっているわけではありません。
ただ、おそらくは世界的な展開も視野に入れた作品なのでしょうが、大勢の人が見るにあたっては、なるべくフラットに見ていただければ良いのかなと、そこは敢えて楽天的に考えるようにしています。
少なくとも今回のアニメ化において、その「フラットに見ていただくための仕掛け」をマッドハウスさんが非常に丁寧にやっていただいたとは思っておりますので、今はそれを信頼することにしています。
良い映画を見ることができました。
今年はもう少し映画を見てみようかと思います。
注:本記事にはサイト上で公開された画像をあしらっています。また、記事中で言及している箇所については原作コミックスから画像引用を行っております。