あそびの会(6月)
小学生数人と実験的にはじめているあそびの会。
6月で3回目。おたがい気心知れてきた感じで、冒頭の遊びも大盛り上がりでした。
(現在は募集は中止しています)
あそびの会は、基本的には子どもたちからやりたいことを提案してもらうシステム。
なるべく私からの提案は最小限にしたいと思いつつ、まだファシリが必要な状態なので、ネタだけは仕込んでいきます。
それはやりたくない、と言われれば引っ込めるつもりだったんだけど、
やっぱり今日もみんなからの「これやりたい!」はなかったので、こちらが用意したものを提示しました。
おぉ〜やってみるやってみる!
と大盛り上がりの導入。
ゲーム要素も入れつつ楽しみました。
でもやっぱり…最近のお子様全般に言えることなのですが…
「やってみたいことある?」と聞いても、勢いよく
「な〜い!」と…
「なんか決めて〜!」「めんどくさ〜い!」と…
ですので、「今日は半分は私が決めよう。半分はみんなが決めよう」ということに。
後半は積み木遊びがやりたい!ということだったので、
積み木で好き勝手遊んでもらいました。わたしは遠くで見ているだけ。
「見てみて〜」と言わればみるけども基本的には何もしない。
「ヒオキさん何もしてくれない!手伝ってよ!」って言われるんですが、
やっぱりこれってちょっと疑問なんですよね。
遊んでくれる大人がいるって嬉しいことですか?
私は小さい頃、あまり嬉しくなかった子どもだったので、どうもこの言葉に慣れない。
自分のやりたいことに手を貸して欲しいのはなぜですか?
時短?
なんか、あっという間にできることが正になっているような気がして、
ほんの少しの努力は途方もない時間のように感じているのでは?と思います。
話はそれますが、昨日書いたこちら
でも書きましたが、
時間をかけることに、回り道、寄り道することが、耐えられなくなっている子、人、多くないですか?
じっくり考えることこそ、幼児期に必要なことで、
この世界はあまりにも「時間」に精神を奪われすぎていると思います。
子どもたちにも、じっくり悩んで、じっくり困って、そのどうにもならない時間を体験することが、今後生きていく中で、苦しい時、宙ぶらりんな状況を耐え抜く力になると思っています
(これをネガティブケイパビリティと言いますが、また別記事に書きます)
というわけで、個人的には、「手伝ってよ」はなんか違うな〜と思い、「う〜ん困ってる?」と聞くと、「いや、困ってない」と…笑
困ってないのに手足になるのはおかしいと思うので…「いや、自分でやるんだ!」と檄を飛ばしたわけです 笑
遊びの発見は、自ら行った方が絶対楽しいので、
そういう癖を作って欲しいな、って思います。
自分で創造する喜び。
きっとある子にはしっかり根付いて、ない子には全くない、、そんな肌感があります。
そういうのをじっくり観察させてただくこの「遊びの会」
各々が夢中になって、シーンとする時間もありました。
あと30分くらいで完成できそう?と聞くと、
30分もある!と目を輝かせていた子にも驚きました。
遊びが発展できず周りの子のチャチャ入れを始めてしまった子もみんなと共同作業するのが上手で、最後はみんな巻き込んで遊べていました。
こういう時間、90分では足りず、それぞれが独自に始まる遊びが、くっつき、離れ、また新しいものになっていく、そんな場所にならないかと、次回にも期待したいと思っています。
ではまた