宮城准さんと、ゆっくりつながる。#02「母が母じゃなくなっていく」
(前回はこちら)
思春期は、母親との空白の時間
――(𠮷)何派と何派?
僕は自分の家にひきとる派です。
親父としては、預けた方がいいかな、という派。お前の人生もあるし、お前はまだそんなに人を見る余裕はないだろ、と言っていました。
――(𠮷)どっちも正論じゃん。宮城君もそういうケースをいっぱい見て、施設入っても幸せだなという部分も知ってるだろうから、アンビバレントな感情があるんだろうけど。親父の言うことも一理あるな、みたいにも思わない?
何となく分かっているんですが。
ちょっと僕、母親と仲が悪かったもので。
高校生くらいかな、僕は反抗期のまんまだったと思います。
というのは、母親が精神が不安定な時期がありまして、八つ当たりが僕にきていたというのがあったんです。
思春期の僕は、本当に家族の中で問題になるくらいでした。母親とまったく話さなかったです、家に帰っても。母親が帰ってきたら僕は2階に行く、みたいな。感情のコントロールが苦手な人だったので、帰ってきたテンションのままガガーッと言うから、一旦距離を置きたいという……嫌いではなかったんですけど、理不尽さを感じていましたね。
姉はもう家を出ていたのもあって、高校の時は3人家族でした。
今考えると高校生の時は、今ほど度量がなかったですし。
――(𠮷)その頃からやりたい仕事は決まっていたの?
いや、決まってなかったです。なので将来の話とかまったくせずにいました。ほんっとに、何にも考えてなかったです。高3の途中くらいまで。
――(𠮷)センター試験間に合わくね?笑
笑!とりあえず理系に進んだくらいです。
中学、高校みたいに自動的に決まっていくのかなと思っていたらそうはいかなかったですね。甘かったっすね。笑。とりあえず医療系の大学に行こうと思って。
――(馬)高校時代は何部だったんですか?
サッカー部です。中高6年間やって、都大会レベルの中堅、くらいでした。
うちは「子供のやりたいことは絶対にやらせる」という家だったのでありがたかったですね。親父も母親も若い頃すごく苦労したので。
――(馬)…金銭的に?
はい。
母親は沖縄出身で、祖母と姉と3人暮らしだったそうです。祖父の話はあまり聞いたことがなく、3人で上京したと聞いています。戦後の沖縄は相当貧しかったようで、学生の頃からバイトをしていました。
自分たちはやりたいことを何もやってない。だからこどもには叶えさせてあげよう、と。私立の大学に行った時も、1000万円くらいかかるのですが何も言いませんでしたね。今になって感謝しています。
思春期に空白の時間があったので、母親と向き合う時間が欲しいなと思っている、というのもあります。
――(馬)お父様とお母様は、東京で知り合ったんですか?
そうですね。親父も地方出身です。お見合いか恋愛かは聴けなかったんですけど、荻野目洋子を一緒に踊った、と聞いています。
――(𠮷)ナンパかな!笑
――(馬)笑。お父さんとお母さん、仲良かったんですね。
うーん…子供が成人してからはつかず離れず、な距離感だったように思います。昔からあまり会話はなかったように記憶しています。でも母の様子が変わってきた頃から、親父は母とよく話し、いろいろな所に一緒に出掛けていました。
ちなみに、僕は昔から母に甘えっきりで。姉はどっちにも寄りつかなかった。兄は親父とよく一緒にいたように感じます。
僕は1番泣き虫で、何かあると「おかぁさん〜」と。
いつも守ってくれる存在でした。昔、母と2人でよく向かい合って手を繋いで寝てたことを思い出しました。小学校高学年までしていたんですよ。母親の手ってなんであんなに安心するんでしょうね。
いつからしなくなったのかな。
――(馬)お父さんは、だんだんやれることが限られてくるお母さんとずっと一緒にいたんですね。
――(𠮷)2014年から2022年まで、8年も。
いや、でも、8年のうち2019年までは、父は母を心配しつつも積極的に動くことなく、それまでの暮らしを続けていました。
これもやっぱり(父が)変化を嫌う、という性格の現れなんですよ。でも、どう扱っていいかわからなかったはずです。病院には連れて行くけど、その時だけというか。日中の行動についてはあまり気にしていなかった。
結果的に僕が騒いで、2019年に介護が始まったんです。
この状態やばいよ!なんとかしようよ!って家族内で騒ぎ立てたのが僕です。
台風事件
2019年に「台風事件」というのがありまして。
――(𠮷)事件か。
19号の台風が凄くて近所の川が決壊しそうになった時です。
当時は月に1回くらい実家に帰っていたんですが、その日も実家に泊まってたら、早朝に母親が犬を連れて出ていくんですよね。
台風が過ぎた、朝5時くらい。
で、5分もしないで戻ってくるんですよ。
「どこ行ってたの?」と聞くと「散歩」と。
犬もキョトンとしていて。笑。
その頃、母はまだリードがつけられていたので散歩はしているんですけど、すぐに帰ってくる。親父に聞いてみると、これまでも朝何回も出ていた、というんです。散歩に連れていきたかったんでしょうけど。まだ明るくならないうちに何度も出ていっちゃうという。
――(馬)2016年から5-6年経ってますよね。その間はゆるーいかんじで緩やかに進行していたんでしょうか?
はい、そういう認識でした。
アウトレット事件
遡ってみると、2016年には「アウトレット事件」がありまして。
――(𠮷)また事件だ。
その頃は実家から仕事に通っていたんですけど、たまーに母親と実家の車で近所のアウトレットに行っていたんですよね。
この時も2人で行っていて、途中で母親が「トイレ行きたい」と。
で、戻ってきたら「鞄を忘れてた」「携帯がない」と大騒ぎになりました。
今考えれば、手元にあるものをどっかに置いて忘れてしまうという症状が出ていたんですよね。
慌てて携帯を止めましたけど、息子としては冷静に対応ができない。「何やってるんだよ、もう一回探して来いよ!」とむちゃくちゃ強く言いました。これは症状が進行しているからだと何となくは分かっていても、やっぱり受け入れられない。その思いが、母親に出てしまってたんだと思います。
2人で帰ってきたんですけど、その後実家の車で夜、逃げました。
母親を1人にして。
起きてしまったことを処理できなくて。
お台場の海へ。
――(馬)逃げている時、どんな気持ちだったんですか?
いよいよ、来てしまった、と思いましたね。
――(𠮷)一線越えたな、というかんじか。
あの場合は逃げるしかなかった。
親父はその夜、怒って電話をかけてきました。なんで一緒に居てやらないんだ?と。親父は仕事から帰ってきたら、母親は大泣きしていたそうです。
――(𠮷)いろんな角度から、難しいよね。
この時僕はちょうど26で。
1人暮らしで好きに生活しようと思っていたから、ここを逃したら一生実家から出られないと思い、「ごめん!1人暮らしする」と言って実家を出ました。
それから時が経って、2019年に実家に帰ってみると、早朝徘徊をしていました。
……徘徊ですね、徘徊とは最近まで思ってなかったけど、あれは徘徊ですね。
近所の人は、母親が挨拶しても返してくれない。
近所のセブンイレブンに1日に何回も行く。
「笑われてるんだよね」と親父がポツンと言った時、いやーなんか、息子として見ないでいたことが、、
――(𠮷)せつねーな……
でも、まあそうだよなって思う気持ちもありました。
近所も、1日にそんなに何回も出入りしてたら、へんだわって思うだろうなと。
母親が母親じゃなくなっていくところが忘れられず、そのトラウマがあとあと発作的に感情的に現れたり、親父への八つ当たりとして現れたりしました。
それで、何とかしなきゃな、と思うようになったんです。
(第3話につづく)