友達は作るのではなく、なっているもの

大学での最初の授業で、隣に座っていた男子から言われた言葉を思い出す。

「ノートを交換してラクに単位を取れるように、友達になりましょうよ

この言葉の字面には、特別に感じるところはないだろう。

だが、今になっても当時のことを思い出すと、発言者がヘビみたいな雰囲気をまとっていた印象を受ける。

ちなみに、その男子とは連絡先を交換したものの、連絡を取り合ったことはない。

友達とは?(笑)

彼にとって、友達とはただの都合の良い存在なのかもしれない。

逆に、同じクラスとして知り合い、卒業後、今年もたまに会っている男子たちは、友達になろうなんて言い合ったことがない。

そして、“俺たち友達だよな”みたいなわざわざ確認する必要もないことを言語化したこともなかったと思う。

つまり、友達になろう、仲間になろう、といった人間関係を意図的に言語化する人間は、相手を都合よく搾取したいがためにそうした言葉を使っている印象を受ける。

極稀に、一方がもう一方に多大な恩恵を得て申し訳なく感じている時に、その負担をなくそうとするため、”友達じゃん“という発言があったと思う。

両者の違いは何か。

友達、仲間、家族などの言葉を未来に対して発しているのか、過去の出来事に対して発しているかの違いなのだろう。

未来に対して発している場合、未来に受け取りたいメリットを期待している。

過去に対して発している場合、与えたメリットが確定しているため、期待とはあまり関係がない。

期待がない理由は、お互いにとって共に過ごした何らかの時間、体験があり、相手にメリットを贈与することに見返りを求めない関係が築かれている。

メリットのための関係か、メリットの有無とは無関係にできた関係か。

そのように言い換えることもできるかもしれない。

メリットばかり計算して関わる人間を選択している人間がいたら、あまり関わりたくないです。

少なくとも、私は。

タイトルで述べたように、友達とは(いつの間にか)なっているものです。

何らかの共通の体験を経て築き上げられた人間関係です。

極端な例を挙げると、共通の苦難に対し、お互いに協力して共に乗り越える。

そんな感じでしょうか。

一人で好き勝手行動し、自分の価値観を押し付けて、“こいつはココがダメだ”とか判断している人間が人と深く関わることは難しいでしょう。

まとめると、友達になろうとか、仲間ができますとか、未来の人間関係を期待させるような発言を前面に出す人間とは関わらないようにしています。

このことに氣づかせてくれたという意味では、一瞬でも関わってくれた大学時代の彼に感謝ですね(笑)

当時は不愉快な思いをしましたが、私の人生で必要だったと思いますので、出逢いは必然ということなのでしょう。

人間関係を広げていきたいなら、自分にも他人にも長所と短所があることを理解し、メリットの有無とは関係なく一緒にいられる人との交流を増やしていきましょう

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