見出し画像

大藏のご先祖は…(上)

             (上は祖父の挽いた薄造りの椀木地)


このタイトルは不正確です。より正しくは、「小椋(おぐら)、大藏のご先祖は木地師」です。(とはいえ、この名字の方で現在まで木地師をしているのは、ごく少数かと思います。)



小椋か大藏か?


江戸末期頃まで 、木地師といえばおおよそ姓は小椋か大藏でした。それは、惟喬(これたか)親王がロクロを使った木地作りを、そこの村人や家臣(=小椋、大藏)たちに伝えたという伝承があるからです。この伝承に関しては、次回詳しくお話しします。


木地師とは、器地師、木地屋 、轆轤(ロクロ)師とも呼ばれ、日本各地で木の器を作っていた職人集団です。平安時代のころから明治前まで、複数の家族からなる集団で、全国の森を自由に移動していました。樹木を伐り加工して、 鉢.盆.椀.仏具などの生活用品を作りました。

画像1


奥会津(福島県) 歴史民俗資料館のポスターより
(左の職人が木を削り、右の補助が綱を引きロクロを回す)



明治以降

明治で木地師の暮らしは大きく変わりました。まず自由に木の伐採ができなくなったこと、以前より職業の選択ができるようになったことなどです。(鍛冶屋などに転職する人も出てきました)


かつては、上のポスターや絵巻物にも見られるように、軸に綱を用いて人力で轆轤の回転力を得ていました。けれど、動力にも大きな変化が見られました。


明治25年(1892年)生まれの祖父は、この変化を体験しています。若い頃は綱を引っ張る人力の補助をしていて、独立後は川の流域に作業所を持ち水車を回し水力を得て、のちに電力を用いるようになりました。(今になると、動力によってどのような違いが生じるのか、聞いてみたかったことです。)


電力の普及によりロクロの回転スピードは上がり、大量に製品が作れるようになりました。こうして定住した木地師は、日本各地の漆器生産の礎となっていきました。



大藏の先祖


画像2

絵巻物の木地師の装束で、木を削る父(テレビ撮影用)
昭和50年ころ、筒井神社にて、

もとは長野県の伊那(イナ)の方にいたようです。それまで伐採を禁じられていた尾張藩の御用林が、明治になり伐れるようになったので、木地師たちは小集団で同県の木曽谷に移住してきたということです。

木曽は山深く仕事もできたのでしょう。木地師は現金収入があったので、周りの村の人たちより豊かであったと聞きます。ところが、戦後はプラスチック普及で仕事の激減、また生活様式の変化による需要減などにより衰退していきました。
 
私が生まれ育ったのは、南木曽町の蘭(アララギ)地区です。そこに昭和30年ころ木地師の家は10軒位ありましたが、昭和60年ぐらいには1軒になりました。同町の漆畑には数軒の木地師が残っていますが、全国的にもほぼ同様な理由で、多くの木地産地が消えていきました

そんな時期を耐えて、私まで仕事をつないでくれた先祖には感謝しかありません。父の嘉一(カイチ)は戦場を生き延び、祖父の酒造弥(ミキヤ)は腕のいい職人で、曾祖父の実は顔も知りませんが、その父である高祖父の利三郎の名前までは聞いています。

画像3


  「永源寺町史 木地師編 上巻 」 1116頁/平成13年/永源寺町(現滋賀県東近江市)発行


ところで、木地師の資料本を見ていてビックリしました。 南木曽町吾妻(蘭)の項に大蔵(藏)利三郎の名前が、書かれていました。名前が印刷されていただけのことなのですが、先祖の痕跡に出会えるとは、分厚い本をめくった甲斐がありました。では、なぜ高祖父の名が滋賀県発行の本に記されていたのか?次回に続きます。




ひと休み … ロクロか、軸(ジク)か?

画像4

  さらさらと鯛茶漬け、根来の蓋付椀に入れて


父によると、かつて蘭の木地師たちはロクロのことをと呼んでいたそうです。「今じゃロクロと呼ぶのが普通になったなぁ」と、残念そうでした。


けれど、今でも軸壺(カンナくずを受けるところ)、軸ねん棒(器を軸に押し込む棒)などの名称が残っています。また、下の写真(新潟県糸魚川市の冊子)でも、「オジクサマ」として、お正月には餅やお酒が供えられていました。察するに、地域によりその名称は異なっていたということなのでしょう。

画像5

   「糸魚川木地屋の民具」平成19年/木地屋会発行                      





次回は、「大藏のご先祖は…(下)」です。

いいなと思ったら応援しよう!