西松屋へ行く
「鮎川さん、それなら西松屋へ行くといいですよ」
会社の飲み会が始まって三時間ほど経った頃だった。
人数は最初の半分ほどに減り、残ったメンバーもいい感じにベロンベロンな時間だ。そんなだらりとした空気の中で「子どもを……欲しくなりたいんです〜」と泣き言をこぼしたわたしに、二歳の息子を育てる同僚が言った。
「西松屋で子ども服を見ましょう! ちっちゃい服や靴がたまらなくかわいいですから。特に、七十センチくらいがいいですね!」
七十センチ。七十ってなんだろうと思い、すぐに子ども服のサイズだと気づく。そうか、人間には身長七十センチの瞬間があるのか。生まれたてか、生後数ヶ月なのかも分からない。わたしの半分以下の大きさの人間が着る服とはどんなものだろう。
例えばパンダ柄のパーカー。水色のワンピース。クマのぬいぐるみが胸元に縫い付けられたセーター。自分が幼稚園児の頃に着ていた服を記憶の底から引きずり出す。
「行こう、行こう!」
ナナとしょーちゃんに話すと二人も大賛成だったので、わたしたちは本当に西松屋へやってきた。仕事終わりに、電車を乗り換えてまで!
店のトレードマークであるピンク色のうさぎに出迎えられると、さっそく入り口近くに服がぎっしり並べられている。小さい。遠目でも見たせいかと思ったが、本当に小さいのだ。
「か、かわいい!!!」
子ども用品店に来るのはもちろん初めてだ。しかしあの同僚が言ったことは一瞬で理解した。子ども服は自由で、素直で、かわいい。服そのものが人を幸せにする力を持っている。
試しに一着手に取ると、なんとそれは、青地に小さなピザのイラストが散りばめられたズボンだった。ピザ! なんだそりゃ! 「かわいい+かわいい+かわいい…=とってもかわいい」ということだろうか。すばらしい安直さ。これぞ子供服だ。
同じ棚を反対側から見ていたナナたちも、さっそく悶えるような声を出していた。
「うわあぁ〜〜」
「すっごい……」
二人は首元にフリルがついたピンク色のつなぎ(ロンパースというらしい)を指差している。確かにこれはすごい。赤ちゃんの全身を、すっぽりパステルカラーの布で覆うなんて。かわいさがマトリョーシカになっている。人類が想像できる「かわいい」の限界はきっとここだ。
サイズを見ると、これがまさに七十センチだった。なるほどね。そういうことか。西松屋を提案した同僚の勝ち誇るような笑みを思い出す。彼の「七十センチくらいがいいですね」とは、「ロンパースの魅力、すごいから見てみろよ」という宣戦布告だったのだ。大丈夫です。もう負けました。
どうやら七十センチから九十センチまでは、ピザ柄ズボンやロンパースのように形状・デザイン共に幼児らしい服が多い。しかし、百センチを超えると小学生が着る服のミニチュア版といった印象だ。逆に五十センチまで小さくなってしまうと肌着感が強く、服としてのバリエーションは狭かった。
やはり七十センチが、選択肢もかわいらしさも圧倒的だ。動物や車のモチーフが全身に散りばめられている服や、実用性は皆無のクマ耳やひらひらがついている服もこのサイズが多い。フードをすっぽりと被れば、天使や恐竜に変身! といった服(着ぐるみ?)まである。
ここにはTPOも着回しも体型カバーもブルベ・イエベもない。大人たちが悩まされている「服」の複雑さのすべてが、暴力的なかわいさで蹴散らされていく。子ども服の魅力の真髄は、ここにあった。
「あ〜、全部かわいい。子どもができたら原色バリバリで意味わかんない柄の服を着せたい」
「わたしはこれ! お尻にクマがついてるんだよ!?」
いつの間にかそれぞれが、存在もしない子どもに向けて服を選び始めている。
わたしがハンガーを握りしめているのは、赤ちゃんが四つん這いになるとお尻に描かれたクマがこちらを向くという、子どもの落書きから飛び出したような服だった。しょーちゃんはどうやら妄想の中に女の子がいるらしく、フリフリの赤チェックのワンピースとベロアの紺のワンピースを両手に真剣に悩んでいる。悩む必要はないよ、しょーちゃん。着る人はいないんだから……。
しかし真剣に悩むのもわかる。わたしは幼稚園の年長ごろには、昨日着たセーターを洗濯カゴから引っ張り出して「これがいい!」と泣き叫んでいた。親が子どもに好きな服を着せられる期間は、思った以上に短そうだ。
もし子どもができたら、きっと毎シーズンのように「あれを着せたい」「これも着てほしい」とつい買いすぎるだろう。背が伸びてロンパースがもう着れないと分かった瞬間は、半泣きで写真を撮るかもしれない。子どもが自分で服を選ぶようになっても、きっと横から「もう少し暖かい格好にしない?」「スカートを履くならタイツも履いて欲しいな」と口を出してウザがられるのだ。
はー。そりゃ楽しいわ。
自宅へ帰ってからも「子ども服 七十センチ」と検索して「やっぱりこっちも可愛いな」なんて考えてしまう。子どもがいないわたしには、こっちもあっちも無いというのに。
子育てに光と影の面があるならば、ピッカピカの光に照らされた日であった。背が伸びて服が次から次へと必要になるのも、親の口出しを拒むようになるのも、成長の証。悲しさと嬉しさの割合は二対八ってところだろうか。
「ちょっと、こっちおいでよ」
飼っている猫を呼び寄せて、数年前に買った首輪をつけてやる。茶色の毛に合わせた赤色の首輪はただの首輪ではない。猫の動きから食事や排泄の記録をアプリに連動できる代物で、一万円近く出して買ったものだった。
首輪をつけられた猫は、異物を振り落とすかのようにベッドや棚の上を走り回る。違和感の正体に気づいたように身体をねじる。首輪をくわえてからは、あっという間だった。
カチャカチャカチャカチャ…カシャン
あーあ。やっぱりダメか。
今日は三分。購入してから二年近く経つが、この首輪を使ったのは一週間にも満たない。猫はたった数日で、首輪を留めるバックルの両端を噛んで外す技を編み出していた。
落ちた首輪に脇目も振らず、不機嫌なまま二階へ駆け上がっていく。「母さんが買った服なんて着ねーよ!」ということだろうか(うちの猫はオスなので)。投げつけられた服を拾うような気持ちで、床の首輪を拾う。
首輪はただの飾りではなく、脱走時や災害時に再会する手掛かりになる。軽くて、余計な装飾もなくて、健康記録もつけられる首輪は彼のためでもあるのに。猫ではあるが、親の心子知らずである。
この場合の悲しさと嬉しさ。八対二くらいかなぁ。比べるものではないと思いつつ、つい比べてしまうのだった。