ぼくがスーパースターの夢を謳い始めたのは小学生の頃だった。
発信者は言葉の価値を失っていく。だが、内に留まる言葉は小さな価値も生まない。
ぼくがスーパースターの夢を謳い始めたのは小学生の頃だった。 当時の作文はひらがなが多かったが、綴られた将来像は今と変わらない。
当時、純粋に抱いた野心だったが、そんな野心がいずれ”唯一の存在で居続けること”を強制し、長い間自分自信を苦しめた。
ピエロのように衣装の着脱を繰り返す中で、人の表情に、言葉に、見え隠れする本意を探すようになっていた。
社会が姿を変えたのか、それとも、ぼくの視界がぼやけたのかはわからない。
次第に、周りの人々が虚言に埋もれていく様をじわじわと感じた。
ぼく自身も安い言葉を外に、本意は胸に閉ざすようになっていった。
自分の声が同じように消耗されてしまうのが、面白くなかったんだ。
思いが強ければ強いほどに。
「誰の心を救えるだろうか。」
そんなぼくが自由に思いを表現するnoteを立ち上げた。
言葉の価値を下げたくない。
それは単なるエゴだったのかもしれない。
繰り返された内省がぼくをそうさせたのか、
ぼくは言葉を通じて自分を守るのではなく、
誰かを救いたいと、ほんの少しだけ本気で思えるようになった。
言葉はとても大切。人を切る刃であり、治癒する魔法である。
だが、発信者はその使い方に怯えてはならない。
伝えたいことがある限り、口を閉ざしてはならない。
短い人生の中で、声を届ける機会を微塵も損失したくないと思ったんだ。
アートは全てを語ってはならない。
時には音楽という手段を離れ、思いをストレートに表現しよう。
アートでは伝えきれない思いを文章に、言葉にならない思いを音楽に。