死んだってまた会える
死んじゃったらかなしい
それが知らない人でも悲しくて仕方がない
死の何がかなしいか。
「この人はもうこの先の未来を見られないのか」
と考えた時に、一番悲しい気持ちになる。
地球が出来てから時間ができてから、よくわかんないけど、どこかから、何億年くらい、歴史がつづいてる。その中で一人の人間が見ることができる時間は大体70年くらいだ。70年だけど、いつもその先までも予想して、希望を持ったり、夢を持ったりして生きている。
死んでしまったら予想してた未来が本当にそうなるか、とか、ならないんだ、とか、知ることはもう無い訳でしょ?
あるところに、孫がいて、孫も同じように何年も先のことを想像したりして、将来像をもって、生きている訳だ。それでその未来が訪れたときには、夢が叶ったとか、結構違う方向にいったね、とか答え合わせをしたりする。
でも、ある日おばあちゃんが死んじゃう。そしたらもうおばあちゃんとは、答え合わせをすることはできない。おばあちゃんだけが、正解を知れないんだ。
それが死んでしまった人を、独りで置き去りにしまっているように感じて悲しくなっているのかもしれない。
あるひとが言う
「命の数はこの世に命というものが生まれたときから変わってない」と。
これをある日、母が気に入ったようすで教えてきた。
つまり、輪廻転生。
死んだら必ず何かに生まれ変わるっていうことだ。
生まれ変わる先は何かはわからなくて、花かもしれないし、牛の可能性もある。
だからさ
おばあちゃんと孫はどっかでまた会えるんだよってことだよね。
死んだおばあちゃんは次は花になってるかもしれないけど
この世界中探せば、どこかで明日からもずっと孫とおんなじ未来を見ているんだよ。
ただかなり遠くにいるかもしれないから、すごく必死に探さないと巡り会えないかもしれないけれど。
でもまた、会おうと思えばどっかで違う形の命になったおばあちゃんに会えるんだよ。
だから、悲しまないでということ。
私は今晩、身近な人の死を想像して眠れなかった。そしたら、自分の死についても不安になってきて、「死んだらどこにいくんだろう」なんて恐くなっていた。
でも私の母方の祖母が亡くなる前に言ったことを思い出した。
「今よりもっといい場所に行ぐがら」
死を身近に感じたとき、この言葉を言えるのはなんだかすごいことのような気がした。
死は得たいの知れないもので、いまから何が起こるかわからないし、絶対怖いものだと思う。それが目の前に迫ってきたとき、私なら泣いてしまって弱音を吐いて絶望をしてしまうかもしれない。
死ぬことで何が一番悲しいかって、自分の大切なものたちの未来の姿がもう見れないことだ。でも、命は続くっていう考え方になった瞬間、一気に死が少しポジティブかも知れなくなる。だって、お別れじゃないから。まだ、一緒にこの世界の未来が見られるんだから。それは一緒の空間ではないかもしれないけれど、どこかで愛する人は、今日も生きてるんだなあって思ったら、死もそんなに恐がることではないかもしれないなあ、と思った。
今日は涙が収まってよく眠れます。
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