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「十万二十万の上流社会」

国語学者の上田万年は、日清戦争のさなか、1894年10月8日に哲学館で行ったとされる有名な講演「国語と国家と」のなかで、こういうことを言っている。

日本語は四千萬同胞の日本語たるべし、僅々十萬二十萬の上流社會、或は學者社會の言語たらしむべからす。

「国語と国家と」『明治文学全集』44巻、113頁。

この前段は、漢文を学校で教えるかどうかみたいな話をしていて、絶対に研究するなと言っているわけではなく「高等教育としては、そのまさしく硏究せらるべきを主張するものなり」といい、漢学のようなものは、「國民の何十萬分の一にのみ、必要なりと認むる學科にてある」というのである。国語国字問題のかまびすしい時期のことである。

気になったのは、「僅々十萬二十萬の上流社會」。上田が認識している上流の人数のことである。これは「学者社会」とも置き換えられている。日本語は、「四千萬同胞」が話せる言語でなくてはならない、というのが上田の主張である。

授業資料の準備で目を通していたのものだが、ちょっと気になったのでメモしておく。

日清戦争の頃の大日本帝国の総人口がだいたい4千万として、上流社会=学者社会を構成するのは10万人か20万人というのだから、総人口の0.25~0.5%ということになる。逆に、国民の10万分の1だとすると400人くらいだから、まあ文科大学の大学生くらいには漢文は必要なのだということなのかもしれない。

少ないと思うかもしれないが、当時選挙権があった満25歳以上で直接国税15円以上を納めている男子が総人口の1.1%(およそ45万人)と言われているので、その半分ないし4分の1が「上流社会」=「学者社会」というのだろうか。

卒業生名簿が載っている『帝国大学一覧』の卒業生全部を集計しても、到底10万にはならない。もっとずっと少ない。当時の大学生の希少性がわかる挿話だが、「上流社会」というとき、上田が念頭に置いているのは、もうちょっと広い範囲ということになる。

日清戦争後に登場した博文館の雑誌『太陽』は自称10万部売れたというので、それを買って読みこなす層が「上流社会=学者社会」とほぼ一致するといえるのだろうか(ただし日露戦争後の原敬関係文書の中に入っている報告書では3万~4万くらいに後退している)。

永嶺重敏『読書国民の誕生』などで『太陽』の読者層を確認するならば、官吏、教員、学生なども入ってくる。地方では裁判所の役人や中学生が読むものだったという。そうだとすれば、旧制中学を卒業する者くらいまでを念頭において上田ら学者は雑誌『太陽』等で発言を試みていたことになろうか。

国立国会図書館デジタルコレクションで『日本帝国文部省年報』の明治27年調査の分を見ると、尋常中学校(5年制)の教員数が、官公立私立あわせて全国で1100人、生徒数は22515人となっている。上位の高等学校に通う者の数となると、4502人。教員は256人である。

このあたりのことは雑誌『太陽』の評価とも関わりそうなので、もう少し情報を集めたい。大正時代に入って資本主義化が進み、ホワイトカラーが台頭してくると『太陽』がだんだん評論誌として売れなくなっていくということも、明治の言論空間の質を考える上で大切だろう



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