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鈴木涼美『JJとその時代』

著者の本を読むのは実は初めてだったのだが、雑誌研究の一事例として読んだ。ゼミ生でファッション誌の雑誌研究をしてみたいという子がいたら見せてみようと思う。女性誌については、坂本佳鶴恵『女性雑誌とファッションの歴史社会学』という本格的な学術書も出ていて、これは読んだことがある。

雑誌があまりにも多様だからだが、学生に「雑誌」とは?と言ったときにまあ論壇誌みたいなものを挙げる人はほとんどいなくて、コンビニでも売ってるファッション誌か、趣味の雑誌、漫画雑誌を連想する人が多い。この点はよほど気をつけないといけなくて、明治時代の『太陽』とかについて話している時にこの視点が抜けていると歴史は今とのつながりを欠いた、自分にとって価値のないつまらない情報として試験に出るから覚える対象になってしまう。

印象に残った箇所をいくつか。

雑誌は甘えでもある。自ら主体性を持って一から全て選択し、作り上げなくてはならないアイデンティティや生き方を、ひとまず棚上げにして規定してくれるのだ(p.24)

JJ衰退期に関して

この雑誌を読めばこういう「何者」になれるというように、一本筋が通っていれば紙面作りには一貫性があり、スナップの対象者を選ぶ基準があり、読者層が絞り込める。そしてその「何者」が魅力的であれば、雑誌の持つ求心力は強固になる。しかし近年の女性たちに好まれる言説は、JJのインタビューでもしきりに登場するように、「自分で信じたスタイルを突き進む」であるとか、「自分に集中」であるとか、「自分を直視すること!」といった、何か外部の力に頼らずに自分の内側から出るエネルギーによって何者かになる、といったものである。それでは、雑誌に何かを規定されること自体が彼女たちの欲望とは矛盾することとなり、当然「何者」かになる道筋を一つに絞られることはむしろ強い抵抗感を引き出す(p.230)

これは自分がファッション誌読まないからだな…と思ったりしたのだが、自分は明治時代の同人誌研究をしてきて、こういう視点を欠いてたのではないかと反省した。つまり雑誌によって「何者」かになるという視点は、虚を突かれたというか、「あっ」と声が出そうになったというか。

「誌友交際」といい、匿名コミュニケーションにある種の現代性に通じるものを見出しながら、いっぽうで「雑誌を使って何かをする(友達を作る、ふざける)」という側面だけを自分は切り取っていて、「何者かになる」面を無視してこなかったかとふと考えてしまった。男子中学生たちは、論壇で大きな顔をしている批評家には背を向けるものと決めつけて無視してこなかったか。彼らの中にも「ああやって評論を書いて有名になって周りにキャーキャー言われたい」という欲望があったかもしれないのに・・・と、本書を離れてしまったが、そういうところまで考えた読書体験だった。

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