<研究紹介>法科と文科(2020年)
中野目徹編『官僚制の思想史』(2020年、吉川弘文館)に発表した論文。ここ数年間で書いた自分の論文のなかでは一番思い入れがあるものの一つ。
副題は「明治・大正期における帝国大学生の官吏志望」。
明治から昭和のはじめにかけて、帝国大学の卒業生のなかで「官僚になる」ということがどういうことを意味していたのか、それを意識の面から探ろうというのがメインテーマの論文です。
普段やってないのになんでそんなテーマを?と言われると、私の博士論文の課題である高山樗牛・姉崎嘲風が帝大出身であったこと。彼らの高校の同級生や先輩には、浜口雄幸とか、井上準之助とか昭和初期の政党政治を担う官僚出身の政治家たちが多数いた、ということがあります。
高山だって姉崎だって法科にいって官僚になっていれば政党内閣期の大臣とかになっていたかもしれない、のに、あえて文科に行ったのは何でなのか。ある程度は本人自らが語るところから説明できるんですけど、周辺の状況を掴むことで、より解像度があがるんではないか、と考えたのでした。
ただし、官僚制の研究ということでいえば、詳細は本文をご覧いただきたいのですが、たとえば、すぐ手に入りやすいところでも、清水唯一朗氏の『近代日本の官僚』のような新書も書かれるくらい、研究の蓄積があって、政治史や行政学の分野を始めとしてものすごい数の論文があり、また大学教育という観点からも教育史の分野でも膨大な成果があり、さらに就職活動の歴史という観点からも相当な蓄積があるわけです。
重要な指摘がいろいろあるんですが、基本的には法科(法学部)出身者中心の分析で、同じ文系でも文科の大学生と比べて官僚になるモチベーションはどうやって作られていったのか、文科出身者と比較しながらその点を明らかにしたら少し違う論点も加えられるのではないかと考えたのでした。
それで集中的に読んだのがNDLにある内政史研究資料です。
また、統計的な調査として毎年出ている帝国大学の進路調査も集計して、「学生のキャリア支援担当教員みたいだな…」という気持ちに少しだけなりながら、過去の歴史を調べて行ったのでした。
ある程度予想はできますが、法科出身は行政官僚や司法官僚になり、大正期以降は実業界に進む人も出てきます。一方文科の卒業生はというと、圧倒的に学校(中等教育)の教員になる人が多いのでした。高山樗牛も仙台、第二高等学校の教員としてまずは職を得ていきます。
中等学校の教員をしばらく勤めたあと、地方の旧制高等学校の教授になるか、留学経験を積んで、大学の教員のポストを獲得して研究に没頭するというのが、文科の標準的なキャリアパスでした。それが可能だったのは、そもそも大学生の存在自体が希少価値であって、大学の数がまだ増えていく余地のあった大正時代までだからこそともいえます。
ただ、教員はやりたくない!という人もいて、一番有名なのは夏目漱石なのですが、帝国図書館への就職を模索したというエピソードが残っています。
清水前掲書などでも強調されるのですが、だいたい日清戦争後のあたりから大学卒業後、高文試験を突破して官僚になる「学士官僚」が登場してきます。
秦郁彦『日本官僚制総合事典 1868-2000』とかをチェックして、高文合格者の名前を書き出して、その人たちの聞き取りがあるかどうかもチェックして…という地道な作業に没頭したのは得難い経験でした。
論文ではさらにそれを4つの世代にグループ分けして、それぞれの特徴を描くということを試みました。
書いてて楽しかったというか印象的だったのは、やっぱり文科の学生の「反役人」気質というか、官吏になるなんて怪しからん!みたいなマインドの人が一定数いたことが自伝から確認できたことでした。文科の学生はもっと世界の偉大な哲学者や文学者と直接対決するので、現実の世界のこまごました問題にアクセクしているようでは全然だめだということのようです。高山樗牛ですら(というか「らしい」というか)、医者より将来哲学史に名前を残すはずの自分の方が偉いということはハッキリ言っていたたようです。
高山樗牛は土井晩翠が第二高等学校の教授として就職して高等官六等になった際も、詩人の社会に対する待遇として低すぎる!と怒ってますので(文学の事業は俗世の規準で測れないのではないか?という気もするんですが、そうではなくて、芸術家をもっと高く評価すべきだという観点から語っているのは高山論の一つのポイントになるかと思っています)。
一長一短あるでしょうが、変な財界関係者の口吻にしたがって、文系学問は役に立たないなんて卑屈なことを文学部生が言っているのは残念なので、もう少し自分の専攻しようとする学問の意義に自覚的であってほしいなというのは、論文を書きながら思いました(発表したら、積極的に宣伝に使おうとも思っていたのでした)。
官界にあって、そのことを強く訴えたのは、例えば沢柳政太郎という人だと思います。彼は東大文学部出身の文部官僚ですが、彼は「国民の思想」を指導し、文化の根底を確立する仕事は文科大学の役割なんだと言っています。考えさせられることばです。ちょうど社会のなかでも「法科偏重」という批判が生み出されていたころの出来事です。
ただ、文科が率先していくはずだった国民思想の方は、第一次世界大戦後に入ってきたマルクス主義の影響で変容というか後退を余儀なくされました。19世紀のドイツ哲学者の研究とかではダメで、社会科学に関してもきちんと押さえておくべきであるという知的態度が生まれてきます(その辺は丸山眞男『日本の思想』のいくつかの論稿を読んでも少し感じることができます)。
進路も、民間や、さらにジャーナリストになっていく人が増えていきました。逆に言うとそれ以前は帝大を出てジャーナリストというのは少数派で、新聞記者は私学出身者で多くが占められていたということかと思います。
そうして時代が昭和恐慌の時代を迎えると、学士たちにとって、官吏になるということが希望であった時代は、一つの曲がり角を迎えることになったのでした。
結論をまとめると、以下のような感じです。
その後は文科出身の官僚も増え、法科と文科との関係は単純に割り切れない複雑なものとなっていくのですが、書きながら「文学部」とか「人文系」とは何なのか、絶えず考えさせられ続けた本稿の執筆は、自分にとってはやはり得難いものだったと感じています。
これを受けた高山・姉崎研究をさらに進めていくことが、自分の課題です。