近代文語文読解練習 高山樗牛「美的生活を論ず」2
テキスト:高山樗牛「美的生活を論ず」(1901年)
「二 道徳的判斷の價値」より。「斷」は「断」。「價」は「価」。道徳的判断の価値について。
この「夫れ(それ)」は品詞でいうと接続詞になる。itの意味ではない。『日本国語大辞典』では「文の初めに用いて、事柄を説き起こすことを示す。そもそも。いったい」と説明される。出てきたら「そもそも」と思っていればだいたい間違いないだろう。そもそもで説き起こす場合「抑々」って使う場合もある。
この段は、漢字が多いが、理屈っぽいことを述べていて論理的なので、漢語の意味さえわかれば、文章の意味を取りちがえることはそんなにないだろう。
「至善」は最高の善、至高の善ということ。(これ自体一つの立場の表明であるが)道徳というのは相対的なものではなくて最高の「至善」を想定している、ということ。「吾人」は「ごじん」と読むが、一人称の私の別の言い方だと思えばよい。明治時代の青年論客が好んで使う。至善というのは人間の行為における最高の目的とするところで、私たちの理想である、ということ。その「至善」が実現できるかどうかにおいて、プラスの行為(裨益する所の行為)が「善」であって、逆にマイナスになる行為(妨害する所の行為)が「悪」だと定義している。
そんなに単純に割り切れるものか?と思うかもしれないが、ここは高山樗牛の主張に少し付き合おう。
「渝」は、変・代・替などと同様「かわる」である。至善そのものの内容は学者によって変わるけれど、道徳判断が、「是の地盤」ようするに何らかの理想を設定して、それに基づいて善か悪かを分けているということは、昔から変わらない、ということを述べている。
ちょっと込み入った話になるが、高山樗牛は学生時代に「道徳の理想を論ず」という論文を、倫理学者の中島力造の指導を受けながら書いている。そこではトマス・ヒル・グリーンという哲学者の自我実現説という主張をかなり吸収して主張を展開している。その論文の冒頭でも「道徳は理想を予想す。凡ての道徳的活動は是理想に到達する為の煩悶に外ならず。吾人が善悪と謂ふ所のものは所詮是理想の現化に対して言へるものにして、是現化に利あるものは善にして之に害あるものは悪なりと謂ふを得ん」と言っていて、要するにここでは学生時代とほとんど同じ主張を繰り返しているわけである。
その前提の上で、道徳には2つの条件(両様の要件)を備えていることが必要だというわけである。具足は、十分に備わっていること。両様の要件というのは、一つは「至善の意識」で、もう一つが「この意識にしたがって外に現れた行為が、目的にかなっていること」だ。という。
その後の文に出て来る「盡」は「尽」。「而かも」は「しかも」と読み、意味は後続の事柄を追加する接続詞で「それに加えて」とか「それでもなお」「その上」というような意味。「乎」は漢文でも出て来る疑問文を作る助詞なのだが、それをそのまま「至善に尽くす意思があってその上行為が伴わないだろうか、もしくは、行為が善に適っているのに善を行おうという心がないだろうか」と疑問で訳すと意味が取りにくい。反語で取った方が意味は自然か。ただ、その後の「道徳上の価値は共に全きを称すべからざらむ」は、以上2つの仮定を受けて、「道徳上の価値はどちらも(意思があって行為が伴わない場合、あるいは行為があるが意思が存在しない場合も)共に完全ということはできないだろう」という意味だと思うので、高山の「乎」の使い方はよくわからないが、まあ、意識と行為両方大事だということを了解しておくしかない。
※読んでわかった気になっても、人に説明しようとすると実は結構意味がよくわからないことがある、という好例かもしれない。ただ、翻訳とはそういう営みの連続であろう。
つづく