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井川充雄『帝国をつなぐ<声>:日本植民地時代の台湾ラジオ』

昭和3年の御大典に際し、天皇が勅語を朗読する「玉音」を、台湾にいてラジオで聴くことは可能だったかどうか。これまであまり考えたことがなかったが、それこそが「日本のマス・メディアの歴史を扱う授業でも、こうした外地における新聞やラジオについてはまったく扱わないか、扱ったとしてもほんのわずかであったように思われる」(p.232)ということに無自覚だった証拠である。自戒を込めて、このことは繰り返し思い返す必要がある。

資料の発掘と整理も井川先生によって進められている。

東京の放送を台湾で。それができたときに、台湾は内地と同等の立場に立てるはずだ、という議論が『台湾日日新報』などに当時存在していたという。ただ、勅語をラジオに載せるのは尊厳の冒涜という反対意見も根強く、結局、玉音放送は中止。総理大臣が万歳三唱する際の唱和も、見合わせとなってしまったという(p.22)。

1930年代を通じて、内地と台湾を結ぶ中継は徐々に整備されていく。1934年には、日台間で電波を広範な範囲に届かせる短波放送による送受信が可能になった。同時に日本の版図以外で傍受される可能性があるため、1942年あたりから日本に不利な情報を発出することができなくなり、遮断される場合もあったという(p.61)。これは大本営発表にも通じるものがあって、そもそも戦況をラジオで発表すること自体にリスクが相当あったということだろう。

本書では、ラジオは時間を共有するメディアである点が強調される。だから、(これも勉強不足でちゃんと意識してこなかったのだが)第三章で扱われる日本と台湾の時差の問題も、きわめて重要な視点であると思った。1895年、台湾総統府がおかれたあと、台湾の時間は西部標準時制が適用され、本土と1時間の時差があったが、これが1937年1月1日から全て本土の標準時に統一された(これにより上海と台湾の間では新たに時差が1時間生じることとなり、交通や通信上で大変不便であるという反対論が出たという)。これは1945年9月21日に元に戻された(p.82)。

ほかにも、台湾でのラジオ体操の実施(4章)や、メディアの受けて側の問題として、台湾のラジオ聴取について職業別の統計が紹介されているほか、日記に見られる台湾人の生活の中のラジオ体験が興味深い(5章)。

ほかに、台湾総督府において1940年から交通局総長に就任し、台湾の放送政策を担った副見喬雄の関係文書が、憲政資料室にあることを、本書によって知った。メディア史から学ぶこと、本当にたくさんある。


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