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高山樗牛の愛犬

※ヘッダー画像はpoconenさんの素材をお借りしました

国立国会図書館デジタルコレクションの全文検索の威力を痛感することがあったので、備忘のために書いておく。

高山樗牛(1871-1902)の伝記の準備を進めているのだが、そのなかで、今まで未見であったけれどデジコレに入っているであろう、館内限定公開の記事を探しに、国立国会図書館に行ってきた。

秋の深まりを感じる東京本館

そのなかで見つかる細かな記事は、思想史の論文では瑣末すぎてあまり使うことができないが、人となりを知るための伝記ではかえって無視しえない重みを持つものが大量にある。これまで樗牛伝を書いてきた研究者・論者たちの探索でも十分に活かされていないものが複数見つかって、それはこれまで自分も見つけられていないものであったので、反省すると同時に唸った。

例えば、座談会のなかでの友人が振り返って「そういえばあのとき高山は~」と言っているタイプの発言がある。

これは、何か言ってそうな著者の記事を悉皆調査すれば見つかるかもしれないが、しかし、座談会のなかの一部分の発言では、座談会のタイトルからではおそらく見つけようがない(「あの頃の思い出」のようなふわっとしたタイトルが付けられていたら手も足も出ない)。かなり探索が難しい記事になる。

同様に関係者の聞き取りをもとにしていても、全然無関係な標題がついている場合。本当に関連するのか、現物を見て見なければわからない。このために一か八か、国立国会図書館で一点ずつマイクロフィルムの請求を試みるというのは、かつてはまあ出来なかっただろうと思われる。

こうした断片をかき集めて新たな伝記を構想することが、後進の者の課題でもあるわけだが、そのなかで、私の心を捉えた記事を一つだけ紹介する。樗牛没後のことなので、たぶん伝記には直接使えないだろうからだ。

大正2年の『新婦人』の中にある「可憐の忠犬ルウ」という記事。

高山樗牛先生の未亡人里子様は、遺子の初子さんを伴れて、御里方なる小石川の杉文之〔※文三ではないかと思われるが原文ママー引用者註〕氏の御宅に淋しい月日を送つて居られます。里子様に御面会いたしますと毎もルウの話が出ます。ルウと申しますのは、樗牛先生の愛犬の名で、この犬は長田秋濤様から御貰い遊ばした猟犬で非常に怜悧な犬であた(ママ)のです、それが明治三十五年十二月二十四日樗牛先生の死なりました翌日、昨日まで達者で居たルウが樗牛先生の病室の前で死で居たのです、それで皆がルウは先生の為めに殉死したのだと其の死を憐みましたので、今でも里子様はこのルウの話をなさいます。

『新婦人』 第3年2月(1913年)72頁

樗牛のことを調べている人間が、犬の名前で情報検索することは、普通に考えて、まずない(無いと思うのが、どうだろうか。生温い!というお叱りは甘んじて頂戴する)。

まして、樗牛が飼っていた犬の名前は、伝記上では「ルールー」と言われているのが通常である。「ルウ」では検索しない。
だから本当にこの記事が見つかったのは「樗牛」という単語でしらみつぶしに探していった結果なのである。

内容は初めて見たもので、びっくりした。まさか12月25日に亡くなっていたとは。

従来の樗牛伝の最高峰・工藤恒治『文豪高山樗牛』(1941年)によると、ルールーは樗牛が明治33年から飼い始めた犬である。留学に当たり旧知の友人で群馬県太田中学の校長だった三浦菊太郎に譲っていたが、その後病気になって留学が亡くなったので返してもらいそばに置いていたもの…と思われる。工藤の伝記でもルールーが最後に出てくるのは樗牛の入院前だが、口絵の解説によるとルールーのことを入院中高山はずっと気にかけていたらしい。

「長田秋濤様から御貰い遊ばした」も、管見の限り初めて知った情報だ。見落としていたら恥ずかしいのだが、何かで裏が取れるだろうか。

高山樗牛の写真でたまに犬(ポインター犬)と写っているものがあるが、あれは第二高等学校教授時代、明治29年に仙台で撮影したもので、うつっている犬もルールーではない(名前は「ソフィア」という名前だったらしい)。

樗牛は犬が好きだった。それは確からしい。
犬に食べ残したビフテキを挙げていて、家族か女中さんかが「勿体ない」と言ったら、お前たちにあげても俺に尻尾を振らないではないか。と言ったという真偽不明の伝承が今日に伝わっている程度には犬好きだった。

ここまで書いていて、ショーペンハウアーがあまりにもプードルが好きな話を思い出すなどしたが、哲学者は犬を好むのであろうか。


大事な告知を忘れていましたが、12月にイベントがあります。よろしければお願いします。


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