即興小説15分 5 海辺の崖、懐中時計、旅芸人
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あるところに旅芸人がいた。彼は話がうまく、行く先々で道行く人にさまざまな物語を聞かせていた。
「本日のお話は、とある少女が主人公です。彼女は幼くして両親を亡くし、孤児院に入れられました。彼女の住む孤児院は海辺の崖の上にあり、綺麗な海が一望できました。少女は無口で、引っ込み思案で、孤児院にいる他の子どもたちと話したことは一度もありませんでした。そんな彼女が唯一大切にしているものは、懐中時計でした。両親がたった一つ残した形見で、もう両親の姿もおぼろげになっているときにも、この懐中時計はその両親の存在を感じさせてくれるので、いつも携帯していたのでした。そう、ちょうどこんな感じの時計です」
旅芸人は懐中時計を取り出して観客に見せ、話を続けた。
「そんなある日、少女はこっそり孤児院を抜け出しました。海を見るためです。申し上げた通り、孤児院は海辺の崖の上に建てられていました。日が暮れる前の美しい海をひと目見ようと、夕食の時間が来る前にこっそり抜け出したのです。もともと引っ込み思案で部屋の隅っこにいるような子でしたから、誰も彼女が抜け出したことには気が付きませんでした。彼女は誰にも気が付かれることなく崖に行き、海を眺めました。夕陽がきらきらと海面を照らし、オレンジと紫のコントラストが際立ちます。彼女はふと思いつきました。両親にもこの美しい景色を見せてあげたい、と。そうしてにわかに胸元から懐中時計を取り出し、夕焼けに向かってかざしたのです。懐中時計のガラスの面がその光を反射しました。とても美しい光景でした。少女は満足して、懐中時計をしまおうとしました。ところが、懐中時計は少女の手を離れ、地面を転がり、海へと落ちてしまいました。少女は呆然と立ち尽くしました。追いかける暇もありませんでした。ただ起こった出来事にショックを受け、泣くこともできずにいました」
集まってきた人々に向かって、旅芸人は身振り手振りで物語を伝える。
「立ち尽くしている彼女に向かって、足音が聞こえてきました。振り返れば、少年がいます。同じ孤児院に引き取られた子どもでした。少年は彼女を見て訪ねました。『何をしているの?』『……懐中時計が……』少女はことの顛末を話し、そしてついに泣き崩れました。少年はどうしたものかと困り果て、そしてひらめきました。『僕が時計、とってきてあげるよ』そうして少年は崖を下り、海の中へともぐりました。季節は秋でした。水は冷たく、長時間はもぐっていられません。それでも少年は少女のために必死に泳ぎました」
観客は息を呑む。そして旅芸人は再び懐中時計を観客に見せた。
「ついに、見つかりました。海の底にもぐっていた懐中時計を見つけ、少年は少女へ手渡しました。とっくに日は暮れていました。少女は感謝を述べ、少年の体を温めようと抱きつきました。何度も何度も、ありがとうと言いました」
旅芸人はにこりと笑う。
「それから少女と少年は仲良くなりました。孤児院を出て、恋人になり、婚約しました。ところがある日……彼女は亡くなりました。海への転落事故でした。青年となった彼は、またもや必死に海の中へともぐって彼女を探しました。見つかったのは、懐中時計だけでした」
空気が重くなる。旅芸人はじっと懐中時計を見つめた。
「実は、この懐中時計こそが彼女のものなのです。物語に出てきた少年こそが僕でした。彼女は生前、世界中を旅したいと夢を語っていました。だから僕は、こうして彼女の形見を持って旅をしているのです」
観客から拍手があがった。旅芸人は一礼してその場をさった。