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アンカーボルトソング 未来を見据えて、今を見つめて

優れた作品に出会えたと思うときにはたいてい、人生という問いにたいするひとつの回答が与えられた手応えがある。
それは別に正解というわけではないのだけど、同じ問題に対して別の角度からの考えが提供されることで、停滞が少し解消されることもある。同じ人間なんて二人といないのだから、いかな問題意識を共有していてもそこには微妙なズレがある。時にその差異は分かり合えない断絶のように見えることもあるかもしれないけれど、新たな意味を生み出す源泉と言うべき場面もあるだろう。僕にとって優れた作品との出会いはそうした場面の一つだ。

だから作品の優劣は、結末での衝撃的な結末や巧妙なトリックとは独立に考えている。また、たとえ感動したとしても豊かな意味に裏打ちされていない場合には、感動したことを不本意とすら思ったりもする。主人公の恋人が死んでしまったらショックを受けるし、不幸の底からハッピーエンドまでたどり着けば、さすがに痛快である。そこに信念がなくとも案外簡単に感動してしまって実に悔しい思いをすることが多々ある。
僕としては不本意な感動というのがあると思っているから、ある種の感動とは別の基準によって作品の良し悪しがはかられるべきであろうという立場をとっている。そういう背景からインパクトで誤魔化さない作品を好んでおり、そうするととりとめもない場面を描き続ける作品に傾向が偏ってきてしまう。

シャニマスが好きな理由も、なんてことのない場面もなんらかの価値観や豊かさに支えられていることを感じるからだ。わかりやすいインパクトに頼らない優れたコミュが次々に排出されるこの場所はとても肌に合う。
これから感想を書くイベントコミュ『アンカーボルトソング』にインパクトが無かったと言ってしまうのは嘘になる。感情の高低差を生み出すような文章設計にはなっていたのだけれど、扱おうとしている問題やひとまずの落としどころに、とても納得させられてしまった身としては、読みなから感じたあの情動は彼女らの切実さからもたらされたものであると好意的に解釈したくなる。
色々言っておいてだが、僕にも評価したい感動があるのだ(というか安易な感動を必要以上に目の敵にしすぎているだけな気もする)

ともあれ、『アンカーボルトソング』は優れた作品であったと感じている。
自分にとっても深刻な問題であるものが描かれていたと思ってしまったから、あるいは、自分にけっこう根深く巣食っている考えを投影して読んでも返ってくるものがあるだけの懐の深さを感じてしまったから、というのがそう感じた理由なのだと思う。
その意味ではとても感動したし、この感動については一切の呵責がない。


小さい感想

余計な遠回りをした。感想にうつる。

僕がコミュ全体から読み取ったのは、こんな感じのこと。
・みんなが幸せな今の状態がずっと続けられたらいいのに……(今のままでいるのが許されないなら、苦労して頑張るしかないんだろうか?)という問題設定(悩み)
・自分らしく輝く姿をファンが見つけてくれるという奇跡

メインは前者の感想になる。後者は自分のこととしての感想ではないから実感がだいぶ薄くなってしまっている。とはいえ、それでも半ば興奮気味になってしまうのは、かねてより「見つけてもらうこと」が今後のテーマになると断言してきたからだ。具体的にはプラニスフィアの感想を書いたときからで、明るい部屋の考察でも追記でまとめたりしていた。

もう少し具体的に話す。

今回で重要な役割を担ったのが、ファンの作ったスライドショーだ。これは以前のアルストロメリアが好きだったというコメントとともに投稿され、ファンのあいだでもアルストロメリアの3人にも響くものだった。
ここしばらくのシャニマスはSNS描写が鋭いというか、目を覆いたくなるような、しかしありがちなオタクのコメントを演出していた。全部が全部ではないにしろ、けっこう批判的な意味合いが込められていることが多かったと感じている。

ちょっと驚いたのだけど、SNS上のコメントの何が悪いのかわからないと言っている人もいて、僕が感じる「うわぁ」って思いはどれくらいの人に共感されるのか少し心配になった。しかし、一度読み返せば傷つける可能性のある言葉であるとわかるはずの投稿だったりしたし、そういう投稿はエゴサで本人の目に入るかもしれないという最低限の配慮があれば表に出さないだろうと僕なんかは思う。また、どんなかたちであれ、その投稿によってアイドルを落ち込ませてしまった描写があるならば、そこから反省が促されてしかるべきだと思う。
(余計な追撃をする。たとえば絶対に予測し得なかった交通事故が起きたとして、避けられない事故だったからドライバーは賠償金を払わなくていいかもしれない。しかし、そこで一切の責任を感じないのも、それはそれで間違っているのではないか? 自分が関わって起きてしまったことについて、予想できなかったからの一本槍でまったく責任を感じなくなってしまうのは、どうにも非道徳的に見えないだろうか?)

ファンのあり方について少し話は変わるが、お客様は神様的な時代遅れな価値観がある。今や批判し尽くされ擦り切れている感はあるが、ことアイドルに関しては人気商売である以上、アイドルを大事にしてくれないファンであってもある程度は迎合しないわけにはいかないという考え方は根強いようにも思う。
その点シャニマスは偉い。アイドルを大事にしてくれない仕事はしっかり蹴っているし、どうなのよってファンは批判的に演出する。SNSのコメントに限らず、GRADなどではファンレターのせいで落ち込んだりする場面もあったりして、けっこうファンに対して手厳しいところがある。前者の仕事選びについては「フィクションだからできる綺麗事でしょ(現実には嫌な仕事もしないと生きていけない!)」と言われてしまいそうだけれど、後者のファンへの批判的な眼差しについては批判の射程に我々シャニマスのファンまで含まれているからけっこう挑戦的だ。
なにせシャニマスで描かれるSNS上のオタクは我々に似ているのだ。
プロデューサーと呼ばれてはいるが、一プレイヤーに過ぎないし、キャラクターに関する感想やら何やらをSNSに日々投げている。そこで投げられる言葉はキャラクターにのみ向けられるのではなく、声優さんなどの実在の人物を巻き込まないわけにはいかない以上、フィクションだからという甘えは許されない。その意味で我々はシャニマスのコミュで描写されているSNSオタクと同じ位相にあると言わねばならない。
客である我々に対して批判を向けているという胆力は本当にすごいと思う。本当はどんな作品でもそうあらねばならないとも思うのだけど、容易なことではないはずだ。好き勝手に裏事情を推測しているからか、運営から「自分たちは凄いものを作ってるから、お前らも適当な行動するんじゃねえぞ」と言わんばかりの覚悟を感じることが多い。

さて、そういう適当なファンを許さない宣言を時間をかけてしてきたからこそ、今回のコミュでファンにきわめて重要な役割があてがわれていることに非常な意味を感じ取ってしまう。

しつこく言えば、あのようなファンを褒めそやすことで全てのファンを肯定しているわけではない。むしろ、受け入れがたいファンもいるという事実に向き合ったからこそ、ある種のファンがこの上なくありがたいことを真に迫って感じとれるのではないだろうか。
やや期待まじりが過ぎるだろうか。だとしたら、さらにいっそう自分の欲が混入した理解になってしまうのだが、あのファンはアルストロメリアに何かしてほしいとメッセージを送ったのではないと考えている。単に自分が一番好きだったアルストロメリアがこれであると表明したに過ぎないという理解だ。もちろん、表明がメッセージ性を帯びることは否めないのだが、そこに要求が意図されていないという違いは大きいだろう。
あのファンは「今も好きだけど 俺の好きだったアルストロメリア」というコメントを添えている。エゴサにひっかかり、何かを促してしまう可能性を念頭において「今も好きだけど」という留保をつけていたのではないかと思う。僕の手癖から考えている節はあるが、自分の好きを表明する以外の含意をなるべく無くそうとすると、その投稿が強制力を持ってしまわないようにかなり意識的に文章を考える必要がある。このファンはアルストロメリアのことがとても好きで、とても尊重してくれていて、さきほどの言い方をすれば「この上なくありがたいファン」であると感じる。

この人に好意的な解釈をしたくなるのは、ここで築かれている関係がとても素敵なものだと感じてしまっているからかもしれない。
というのは、スライドショーで示される「好きだったアルストロメリア」とは彼女らが自分の好きを詰め込んで表現したアルストロメリアであって、スライドショーへの反響は自分たちの好きを追求しても付いてきてくれる人がいることの証であるからだ。これを受け入れてくれるファンは迎合しなくていいファンと言ってもいい。というか、民衆に迎合すると離れてしまうファンだろう。
(この民衆なるものについて、具体的に誰だよというのはよく思っている不満で、「一般人」とか「世間の人々」とかを名指している批判は、敵対する相手がまず存在するのかしないのかよくわからない。存在したとしても批判の結論が彼らは相手にする必要がないということに尽きるのなら、誰かを見下したい欲求が批判の顔をしているだけだろうとすら思うのだが、民衆批判に対する悪口は完全に別件なのでこれくらいにしておく)

自分の好きを詰め込んだものを好きになってくれるファンのことをこれからのシャニマスは大事にしていくんだろうなってことを、僕はしばしば主張してきた。プラニスフィアの歌詞と向かい合って感動したのはそこだった。

そうだよ、数えても数えきれない
ほどの煌めきのなか
出会えたっていう奇跡を
ジブンだけの色にしよう

キラリ光れ!その瞳に映るように
見つけて欲しい わたしたちのStella

この辺りの歌詞を引っ張ってきて、自分たちが一生懸命に光り輝き、その輝きを美しいと思ってもらえる誰かの瞳に映るという偶然の出会いに賭けることになるのではないか、というような話を以前にした。

やはり自分がいいと思うことを犠牲にして、売れる見せ方をするのは苦しいし、何のためにアイドルをやっているのかわからない。これは働き方全般についての素朴な感想なのだが、例えば日本国民全員が誰かの幸福のために自分を犠牲にしたら誰も幸せにならないだろうということをしばしば考える。言ってしまえば、自分のやりたいことを突き詰めていたら誰かのためになった、みたいなことが一番理想的なわけで、それが現実的な問題をいったん全無視した安易な考え方であるとしても、現実を理由に理想を否定することは何にもならない。
あえて青臭い理想を掲げ、現実をそれに寄せることは無謀なほど労力がかかるけれども、とても大事なことだと思う。そんなことを考えている身としては、アイドルが自分の好きを突き詰めていって、それを受け入れてもらえるファンを大事にするという関係性は最後まで残しておいてほしいと切に願っている。


大きい感想

最初に挙げた感想のもう一つに移る。
・みんなが幸せな今の状態がずっと続けられたらいいのに……(今のままでいるのが許されないなら、苦労して頑張るしかないんだろうか?)という問題設定(悩み)

直前の感想と重複するところがあるかもしれないが、けっこう別のテーマになる。
アルストロメリアに長らく立ちはだかってきたことだが、変化をどう受け入れるかという課題がある。今のこの時間が幸せならば、変化はなるべくないほうがいい。感謝祭や薄桃色では、それぞれが自分を通すことで3人の関係性が崩れていってしまうのではないかという懸念と、自分の主張を通しても大丈夫だという確認とが描かれていたと理解している。

だからこそ、『アンカーボルトソング』では最初から千雪さんや甘奈がそれぞれに自分好みの仕事をいっさい不安なく喜んで受けられたのだろう。前の感想で述べたように、自分のしたいことを突き詰めていって、そういう姿を好んで応援してくれる人に見つけてもらえるのが一番だと考えるならば、とても良い傾向のはずなのだ。
千雪さんはアプリコット的な価値観を体現していくのが好きなのだろうし、そこに基盤があるトークスキルを生かした仕事を獲得している。甘奈はまさしく趣味のように楽しめる仕事を通じて、キラキラしたいという大きな目標からも外れていない。
とても良い仕事ができている。

では甜花は?

甜花のやりたいことはなんなのだろうかと考えたとき、シナリオ中で目に付くのは二人の活躍をSNSでチェックする姿だ。甜花の一番大事にしたいことは「アルストロメリアのみんな」なんじゃないだろうかと思いつく。

みんなというのは、三人が一緒にいることに限らず、みんながそれぞれの大切に打ち込めることと考えている。甜花は三人でいられなくても、二人の活躍を確認しては嬉しそうにしている。活躍してる二人に対してけっこう暇そうではあるのだけれど、忙しくしないこともかえって重要であって、特に甜花は自分のスキルアップなどを希望しているのでもないのだから、今ぐらいがちょうど良い塩梅であるように思える。

しかしそれが許される社会だろうか?
のんびりと自分のペースを維持していて変わり映えもしないで生き残れる業界なのだろうか?

ベタに大量消費社会を念頭においてみれば、消費対象であり続けるためにはつねに新しいものを提供しなくてはいけない。
あるいは、夢とまでは言わないまでも何かに向かって努力することが理想的な生き方とみなされる場においては、今のままでいることは怠惰ということになる。

繰り返すように、新しくやりたいことがあったり、進みたい方向があったりして、自分の希望が必然的に自己変革を伴うならば、あとはそれが受け入れられさえすれば万々歳だ。ただしそれは、社会的潮流にうまく乗れるというようなもので、変化を必ずしも要求しない願望の持ち主であれば、現代社会は大きな障害となりうるだろう。
このとき、万物は流転するものだからそのままでいたいとは不自然なことを願っているのだと述べることは適切な批判ではない。というのは、ここでの変化とは成長と言い換えられるべきことがらで、少し前の状態よりも良くなっているべしという請求が含意されているからだ。資本主義はまさしくそうした請求によって成り立っていて、利息の仕組みに象徴的なように時間の経過に伴って全体の価値が増大していくことが前提されている。これは自然の法則というよりも人為的なものだ。そうである限り、抵抗の余地がある。

スケールが大きくなって何の話をしているか見えにくくなってしまった。本筋に戻って言うと、甘奈や千雪が自分のやりたいことをソロの仕事にしているのに対して、甜花のバラエティ番組へのオファーはアルストロメリアが業界で生き残っていくことに寄与するのだとしても、甜花の希望をむしろ妨げているのではないかということだ。二人のSNSをチェックする楽しそうな姿から、甜花にとっては二人を見守っている時間が大切なのではないかと先に考えた。バラエティ番組に出演することは、そうした時間を削らせることになる。番組のオファーを興奮気味に伝えたプロデューサーに対して、甜花は「ひとり……で……?」と聞いていた。

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初期やGRADの甜花をふまえれば、ここにひとりで仕事に向かうことへの不安を見出してしまうのも仕方ない。おそらくプロデューサーにもそのような判断があったと思う。だが、この言葉で吐露されているのは、自分にとって大切な時間が失われることになるのを敏感に感じ取った不安ではなかろうか。
プロデューサーが番組のオファーを伝えた時に、かぶせて黙らせてしまった甜花の言葉は、甘奈と一緒に仕事をする時間をお願いするはずのものだった。コミュの演出に注目したメタ的な読解ではあるが、ほか二人と違って甜花の希望は汲み取ってもらえていない構造が見出せ、本論の立場が補強される。
プロデューサーは無理をさせないようにと配慮しつつも、これを「甜花にとって意味のある挑戦」と言っていて、「いい目標になる」ことを望んでいる。

「無理のない範囲で」とかじゃないんだ! そこじゃない! と心の中で叫びながら読んでいた。
甜花も甜花で二人が大変そうなのを汲み取っていながら、見たことのない楽しそうな姿を見て「やらなきゃ」と焦り気味な義務感に後押しされているのだが、好きなものを楽しむ良さっていうのは甜花のお昼寝姿が二人に気づかせたことなんだぞ! と心の中で叫んでいた。

甜花ちゃんの幸せは未来じゃなくて、そこらへんにあるものなのに目標だなんて……という気持ちになる。
目標というのはやっぱり成長の必要性を見込んでいないと出てこない概念だから、僕としてはけっこう身構えてしまうし、甜花の希望とは離れてしまうのがどうしても気にかかる。本人の希望の通りにするのがつねに正しいとは決して言えないが、ここでは本人の希望がまったくふまえられていないように見えるのが、今後のほころびの予兆であると感じてしまう。


甜花の希望に沿っていないことが、ほころびの前兆であろうと言うのは、事後的に正しいと判定できるつもりだ。というのは、本ストーリー全体を通して、甜花のケアがアルストロメリアにとって果たしていた役割の大きさが示されていると読んだからだ。

度々指摘しているように、甜花はSNSをこまめにチェックしていて、千雪や甘奈は即座に甜花からの「いいね」が届くのを確認している。それが離れていても三人をつなげていることは「別々、だけど……でも……一緒だよ」という甜花の独り言によく表れている。
ところが、甜花が立て込んできた頃、なかなか「いいね」がつかなくなることに千雪が気づき、甘奈に差し出したミルクティーは受け取られない。甜花の声が届かなくなっている。15分の会話も、なんとか作ったお祝いケーキの時間も、会話がぎこちなくなっている。さらに続けて、甘奈の仕事は難航し、千雪もいまのあり方に悩んでしまう。
これらの受難の一番最初には甜花のバラエティ番組出演があって、その本質は甜花による二人へのケアが損なわれてしまってことにあるのではないかと思う。だからこそ、ようやく甜花の声が届いた瞬間が大きなターニングポイントに見えて、感動すらしてしまった。

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この後の展開で、状況を好転させるのに一役買っているのが例のファンが作ったスライドショーだ。3人が好きだったアルストロメリアを思い出させてくれるファンがいる事実に、改めて胸にこみ上げてくるものがある。


大きめの感想(裏面)

甜花は自分自身が「(変わらないで、遠くに行かないでって思う)寂しい人」であることを明言している。これがある程度は補強になると思うのだが、甜花が二人を支えることを望んでいたのに、それができなかったことが今回の受難の原因であるという読み方を示してきた。
ここまで甜花のケアが損なわれて生じた出来事として読んできたが、他方で、いずれ立ちはだかることになる困難であったろうとも感じている。

「二人と一緒にいたい」「二人には自分が大切にしているものを大切にしていてほしい」といった望みを甜花のなかに読み込んでいるわけだが、そうすると、目標のような未来志向的な発想とは相容れない。甜花が望むのは、現在の日常的な幸せを守ることであるとも言い換えられるだろう。

個人的に考えていることがある。
夢とか目標とか信念とかがあって、その成就を願っているとしよう。そのために欠かせない努力の日々が苦しいもので、成就のその時までずっと過ごさねばならないのだとしたら本末転倒だろう。その場合、目標達成による喜びや未来にもたらされる利益の見込みでは現在の苦しさを代償できないのではないか。そうしてみると、努力が概ね楽しくて努力の時間はまさしく努力している現在において報われるのが、落とし所としてふさわしいだろう。努力自体が楽しいというのは、ちょうど甘奈が香水の種類を勉強していたときのようなものだ。要するに、未来を見据えて過ごす現在にも幸福を見出す必要があるということを考えている。

逆に、現在の幸福だけでは足りなくて、未来への眼差しを持っていなくてはならないのは、ずっと今のままではいられないからだ。前節の冒頭で述べたように、まず社会システムが今まで通りを許してくれないところがあるし、そうした外圧がなくとも老化現象とか自然の営みのなかで不可避的に変化を強いられる場面が必ずやってくる。自分の願いとは裏腹にいろんなものが変わっていく。
固定化されていて永遠とも言える過去が輝かしいものならば、そちらの方へ目を逸らしてしまいたくもなるけれど、そうしてばかりもいられなくなったとき、未来を眼差した今を守るために大変な瞬間に向き合うことになるのは、大切な苦労と言えるのではないだろうか。

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千雪が「アイドルじゃなくなっても」と言ってはじめられた会話から、このようなことを考えていた。
余談だが、最終話の「ベストに入らない時間も大好きよ」という千雪の言葉が最初はしっくりこなかったのだが、ベストの時間を守るための努力が必要で、それが苦しい努力であったとしても間違いではないことに気づいたのを踏まえての発言と考えるといいのかもしれない。


未来を眼差した今が幸せである、ということの一つのイメージは「いってきます」が言える場所があること、帰還できるホームベースを持っていることだ。

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三人で過ごした時間を経て、甘奈と千雪が「いってきます」と言っていたのが印象に残っている。
甜花をはじめとして、三人が守りたいと願ったアルストロメリアというホームベースを絶えず構築していくこと。その営み自体が三人にとって楽しいものでファンの心を沸き立たせるでもあるような、そういう日々を過ごすのを目指す物語として読んでみると、『アンカーボルトソング』のタイトルに眩暈がするほどの美しさを感じてしまう。

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