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あやうく巨大感情と言いたくなるほどの

『リズと青い鳥』を観てうっかり巨大感情とつぶやいた。複雑で細やかな感情の絡まりがあまりに巨大で、感想をあやうくその一言で済ませかけた。

不思議なことに一言で感想を言いたくなる映画であった。
感想というやつは面白いもので、言わずにはいられないという時もあれば捻り出さない時もあり、うまく出てきたものには妙に納得させられたりもする。
言葉にすることでより明瞭に自分の感情に向き合うことができるし、「自分の」感情ではあっても完全に自分由来のものでもなく作品によって触発されたものだから、ある意味では対話的な産物である。だから新たな気づきや学びがあって面白い。

だから感想を言いたくなること自体は僕にとっては日常茶飯事なのだが、それを一言で言いたくなるとはどういうことなのだろうか。
『リズと青い鳥』を観終わった直後、僕は脳内Twitterで「巨大感情」とツイートした(脳内TwitterはまだXになっていない)。
「感想を言いたい!」という気持ちを抱かせるような作品は、経験的に言って良い作品だ。だから振り返る時間が大切な種類の映画だとは自信を持って言えるのだが、いくつかの点でこの感想には戸惑いもした。

一言で済ませたことへの疑念は後々になって抱いたもので、初めのうちはそれが雑なネットミームであることに困惑した。僕はなるべく「分かったような気持ちになる言葉」を使わないようにしており、ネットミームはしばしばそういう性格のものだからだ。巨大感情で言えば、何をもって大きいとするのかや誰のどの感情の話をしているのかを曖昧なままひっくるめた表現となっており、具体的な話を避けているのが少々ずるい。
とはいえ自分の語用であるだけあって巨大感情という感想には納得感があるもまた事実だ。まずはここの解体から始めたい。

随所で強い感情を目の当たりにさせられているという経験については、個人的に疑問の余地はない。
実際、映画のどのシーンをとってもむせ返るほど感情に満ちている。主要人物二人(みぞれと希美)のお互いに対する想いはそれぞれの中で大きなもので、それだけに百合であると述べられたりもする。だから、我々は彼女たちのお互いに対する感情に圧倒され「巨大感情」を覚えるのかもしれない。
しかし僕は”どの”感情にやられたというのだろうか?


ここでストーリーを振り返っておこう。
鎧塚みぞれと傘木希美が所属する北宇治高校吹奏楽部は次のコンクールに向けての練習をしていた。注目すべきは課題曲の『リズと青い鳥』で、同名の絵本のストーリーに沿った曲となっている。見せ場は第三楽章、みぞれのオーボエと希美のフルートの掛け合いで、その練習期間中、二人の関係性は揺らぎ始める。
無口なみぞれにとって希美は数少ない大切な友人で、天真爛漫で交友関係の広い希美としても同じ中学出身のみぞれのことは親友と思っている様子だ。しかしみぞれの方は執着とも依存とも言えそうな感情を抱いており、先生に勧められて反応を示さなかった音大受験も希美が「私も受けようかな」と言うと即座に受験を決意する。
みぞれとしては、大切な存在である希美と離れていくことは受け入れがたく、そう意識するにつけ絵本『リズと青い鳥』でのリズの行動が理解できなくなる。リズはみぞれと同じく基本的に一人で過ごしていて、そこに人間の姿をした青い鳥がやってきて、楽しく充実した日々を送るようになったのだが、彼女が青い鳥であると気づいてしばらくしたある時、あなたは飛んでいる姿の方が美しいからとさよならを告げる。青い鳥のことが大好きなのに突き放してしまうリズの行動は、自分になぞらえてみれば希美をわざわざ自分から遠いところに行かせるようなものであり、みぞれにはそれが理解できなかった。
一方、希美はその絵本が好きで、みぞれにとって理解できないものであることにも気づく様子がない。希美の関心事は進路希望にあり、音大受験をまわりも応援はしてくれてるが自分が本当にそれだけの技能があるのかには不安が残っており、プロとしてやっていきたいのかもはっきりしていない。その不安はみぞれには言えていない。みぞれは明らかに自分に合わせて音大受験を決めたのだが、妙な言いにくさがある。そのように希美は希美の懊悩を抱えている。二人のあいだには見えない壁ができはじめており、練習でも二人の掛け合いパートの出来栄えは振るわない。
みぞれはリズの行為が理解できないことを先生との面談で打ち明けると、思いも寄らない見方を得る。ひとりぼっちの自分を明るく照らす存在がやってきた経験によって自分をリズの立場に重ねていたが、青い鳥の立場で考える視点を提案されたのだ。リズが自分のせいで彼女の能力を抑えていることを憂い、最も美しい姿で飛翔することを望んでいるとしたら、青い鳥はどう答えるのだろうか。みぞれは次の練習で、それまでとは格段にレベルの違う演奏を披露し、部員たちを圧倒する。
希美はみぞれとの実力差を痛感し、一人その場を離れるがみぞれが追いかける。お互いの心のうちを二人に伝わる仕方で伝えると、希美は吹っ切れたように笑い、音大ではない大学を受験することを決意する。それからある日、かたや練習を、かたや勉強を終え、二人は一緒に帰路につくのだった。


というのが、少々長めの(しかし不十分な)おさらいになる。
そして改めて問う。自分はどの感情にやられ、何によってその大きさを実感したのか?

希美が無自覚に抱いていたみぞれに対する劣等感にも似た憧れだろうか。
みぞれが自身の能力を抑えてしまうほど強く抱く、「希美とともにいたい」という願いだろうか。
確かにそうなのだがそれだけではない。それら全てにやられた、というのが本当のところだ。巨大感情と言ってしまうと一つか二つの大きな感情を想像してしまうけれども、それは僕の感性を誤解している。無数の繊細で強度の高い感情たちが寄り集まってあたかも一つの大きな波のように寄せては返す90分間が『リズと青い鳥』の映画体験であった。そうではなかったか。

なるほど、希美がみぞれに対して憧れを抱いていたことに気づく様子は僕の胸を打つ。しかし、憧れを自覚した希美が今まで自分の方が上であるかのように思っていたかもしれないことを自覚する瞬間、おのれの人間性への幻滅、自分の演奏技術が客観的に見て劣っている事実を受け入れざるを得ない苦しみ(それを屈辱と受け取るなら自分をみぞれと同等以上に見ていた驕りになお一層向き合うことになる)、これら全ての複雑で繊細な機微が絡み合って一斉に押し寄せてくる。それは希美のみぞれに対する感情だけではなく希美自身への感情でもあり、截然と分けられるものではない。
みぞれの側の感情も一筋縄ではいかないし、さらには主要人物二人以外の想いもそこに加わる。上の振り返りでは触れなかったが、後輩の先輩への憧れなどは良いスパイスとして効いている。

この映画を百合だとみなすにしても、単に相手への恋愛感情の大きさを主張するのでは片手落ち以下だ。画面越しに押し寄せてくる巨大な感情の波には、思春期らしい自分自身への感情もあれば優れた人物への憧れもある。それら一つ一つは繊細なのに、寄り集まって大きなうねりとなるのは不思議と自然の摂理のようにも思われる。

なぜ一言で感想を言いたくなったのか、と初めに問うておいた。答えは最初からわかっていたような気がする。
自分は何か得るものがあることを期待して作品を鑑賞するのだが、『リズと青い鳥』は学びではなく心を、むせそうなほど接近して突きつけてきた。その容赦なさに圧倒されてしまったらしい。しかつめらしく考える理性を透過して心を直接握りにきた濃密な空気感に一言呻くことしかできなかったのだ。

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