シャニマスは何をしようとしてるのか
「YOUR/MY Love letter」の強烈な余波を感じる季節でありますが、いかがお過ごしでしょうか。
私はいまだに「はこぶものたち」を引きずっています。
さて、今回筆を執ろうと思ったきっかけは『YOUR/MY Love letter』の感想を述べるためというよりは、表題にある通りシャニマスが今年何を目標に掲げているのかについての考えがまとまりつつあるので、今のうちに書き留めたく思ったからです。
念の為申し添えておきますと、この記事は「これが答えだ(バァーン)」と示すものではなく、思索の過程(せいぜい中間産物)をお示しするのみです。いまや無邪気に使うことがいっそう躊躇われますが「読者のみなさん」にとって新たな視座を提供できれば、拙稿にとっては十分な供養でございます。どうぞお手柔らかに閲覧ください。
なおこれ以降『YOUR/MY Love letter』のネタバレを含みますので、そちらに関してもあらかじめご了承ください。
YOUR/MY Love letter
今回のメインテーマは『YOUR/MY Love letter』ではないのですが、きっかけであることには違いありませんから、ごく簡単に振り返っておきます。
言わずもがな、これまでのイベントコミュと一線を画するのはこのフォーマットです。この場面まででアルストロメリアが登場するのはテレビの音声のみで、「ピアスの女性」と称されているこの人にとっても(他の番組でも見た気がするな……)という程度の存在感でしか登場していません。
演出は密着ドキュメンタリー風とでも言いましょうか、見せ方からしてアルストロメリアよりも「ピアスの女性」の方に偏ってカメラが向けられていることがわかります。焦点が当てられる人物はどんどん増えていくのですが、いずれの登場人物の視点においても、またストーリー展開においても、アルストロメリアの存在感が急激に大きくなるといったことはなく、表面上とても静かに進行していきます。アイドルを中心に見たときに背景になる人が中心に据えられると、今度はアイドルの方が背景に溶け込むという対称性は面白いところです。
登場人物の誰もが、それぞれの場所で悩みを抱えており、そのひとつひとつが身につまされるほどにリアルです。個人的には「ピアスの女性」が思わずこぼした「私の代わりは いる」という発言にしばらく立ち直れないほどに共感し泣き崩れました。それから甘奈のファンの女子高生が「おんなじ高校生なのにな」と、凄すぎる同世代と比べて落ち込む仕草もよくやってしまうので、長らく気が沈みました。
今挙げた二人を含む、今回の主人公である彼女/彼が異様にリアルであるということがどういう意味を持つのか、というのは個人的に長らく気にしていることでもあります。解像度が高くなり、共感を呼べるようになり、話に説得性を出すことができるからリアル志向は優れているんだという理解はひとまず穏当なものとして受け入れますが、どこか理解の曖昧さに甘えて「リアルだから良い」ということになっていないだろうかと気になっています(たとえば「解像度」という言葉自体の解像度の低さが気になります)。
特に、アイドルの傘を事務所に設置するリアリティの上げ方と、アイドル以外の登場人物のリアリティを上げることの意味は大なり小なり違いがあるのではないかと考えており、後半で述べる二つのトピックに概ね対応しているつもりです。議論を先取りしておけば、前者がアイドルとわれわれの関係性に影響を及ぼし両者の距離を縮めるのに対し、後者はその他多数とみなされがちなひとりひとりに注目することに意図があると考えます。本稿で先に取り上げるのは後者の方です。
さて、『YOUR/MY Love letter』に話を戻しますと、その最も優れているところでもあり一番の見せ場でもあるのは、第6話以降の「ピアスの女性」「女子高生」といった属性による指示がとれて「遠野美百合」「甲田彼方」と名前で呼ぶ場面でしょう。
ともすればいくらでも替えがきく脇役だったはずの人が、名前があることによってその役回りがその人だけの場所になるというような感動に涙を禁じえません。
やったことは名前で呼んだだけ。劇的なことは何も起きていないのに、感動的なことが起きていて、シナリオの強さに畏れおののきます。
この凄まじさについては何を語ろうとも蛇足になると思いますので、これ以上は控えるとしまして、ここからシャニマスの方針が見えないだろうかというのが今回の主題にあたります。取り出したいテーマは二つあり、ふたたび先回りして簡潔に述べておくと以下のようになります。
背景に溶け込みがちな、いわゆる普通の人に焦点を当てること。SHHis加入以来、特別であることによらずに、その人だけの存在意義を認める必要が生じていたと考え、今回がその一つの回答であると見ています。
われわれ巻き込む意図。画面を隔てたこちら側、責任を負わなくてよい安全地帯でコンテンツが与えられるのを待つ姿勢を許さず、なんとかして参与させようとしているのではないかと感じます。
どちらもこれまでの広めの文脈を踏まえて考えていることであり、それぞれ『はこぶものたち』と『#283をひろげよう』を主な参照点としています。ひとつずつ述べていきます。
特別でない人
『YOUR/MY Love letter』ではキャッチフレーズ的に「すべての名もなき人たちへ」という一文が掲げられます。プロデューサーに密着取材の打診があったことにも見られるように、なかなか日の目を見る機会のない人も注目されていいという姿勢を読み取ることができます。
『はこぶものたち』でも兄やんと呼ばれる運送業者が密かに灯織たちに応援されていたところからも、最近のシャニマスはこういうスタンスであるらしいことがわかります。
そうした端役に陥りがちな人間も特別な存在であるという主張には賛同したいところです。そうでもしないと突出したところのないほとんどの人間は別にいてもいなくてもいい程度の存在意義になってしまいます。いかに優れた人間であったとしても、ときには背景になってしまうことがあるくらいですから、自分含め特に何に秀でているでもない人間が大半である以上、特別でなくても人間の存在価値は保証されなくてはいけないと思います。しかし生きてるだけでえらいといったレベルの存在肯定は理論先行的といいますか、自分自身の本心としては言おうにも中身が伴わない綺麗事になってしまわないか、というのがもどかしく思うところです。
いざ自分に関して「生きているだけで偉いんだ」と思おうにも、そんな尊大なことは思えませんし「誰かの役に立とう」「誰かの憧れでいよう」となんとか自分の価値を自分で認めようとしてしまいます。もちろんこれは他人へ依存するところが大きいですし、ピアスの女性がショックを受けたのもこの戦略の陥穽にはまったからです。すなわち彼女が絞り出すように認めた通り「わたしのかわりは いる」ということで、自分の価値を保証してくれていた立場はその立場に価値を認めているのであって、まさにこの自分でなくてはいけないといったことは何ら保証していないということです。
それでも、特別な人間になるという方向性の努力は依然として有力で、専門性を上げることによって(その職場におけるノウハウを備えているなどの個別の事情に詳しいといった専門性であってもよい)次第に代わりのきかない人材になることはできますし、社長などになればその人でなくてはいけないことにもなります。職業的地位を自己実現の手段に使うことには疑問も残りますし、たまにうまく作動しないことも気になりますが、そうしたものをイレギュラーとして除いてしまえば、何かの役に立つことによって自分の価値を認めるという戦略はおおむね上手くいく、というのが正直なところです。逆に「特に何の役にも立っていないけど生きているから偉い」というのが綺麗事めいていて乱暴に思える以上は、少なくともまだ納得感のある考え方です。誰かの役に立って自分に価値をもたらす戦略は、それで騙し騙し一生をやり過ごせるくらいには有力であるように思われます。
現実に適用したとき覆しがたく有用であるこの考え方を当たり前のように受け入れて登場してきたのが七草にちかであると考えます。
にちかは自らを平凡な女の子と称し、「◯◯しないと見てもらえない」や「誰が見るっていうんですか」「私なんかただの人ごみ」というように、言葉の端々から特別な人間でなくては見るに値しないと考えているらしいことがわかります。
これに対し「特別じゃなくたっていい」と声をかけたくなりますが、アイドルである以上は売れる必要があるなどの現実的な事情が立ちはだかるとき、その言葉は薄っぺらく映ります。
しかし特別であろうとすることは、やはりいくつかの理由から避けたい考え方です。
・ピアスの女性が落ち込んだように、同じ資格を持つ人が現れればすぐに特別ではなくなるから。また自分より価値ある人間の登場によって自分の存在価値はいよいよ薄くなるから。
・特別であることに価値があるなら普通であることを見下す結果になるから。ひいては自分が特別で価値ある人間になったとしても、それを承認する民衆は自分にとっては見る価値もない人間たちとなり、承認された「特別」の価値も損なわれるから。
ほかにも理由は挙げられると思いますが、アイドルという職業としてはファンを有象無象として見るほかなくなる価値観は、いかなる意味でも致命的でしょう。
やはりあきらめず他と比較して優れていることによらず価値を認める道筋を考える必要があるように思います。
そのひとつの回答が『はこぶものたち』での兄やんへの注目・応援であり、また少し別の角度からの回答が『YOUR/MY Love letter』で示されたひとりひとりに名前があるということであったように思います。
個人的にはこれらに込められたメッセージは、ただ「生きているから偉い」と述べているのでも「誰かにとって大切であるからそれだけで十分」と述べているのでもないのではないかと感じています。これらはそもそも人の価値を認める根拠としてあまりに弱いように思います。たとえば同じ電車に乗っている見知らぬ人のことを、このような理由から尊い存在であるとは到底思えません。親にとっては大切な娘であろうが知ったことではありません。しかし見知らぬ人相手であれ実際に心を動かされる余地はあり、たとえば「親と昔はよく遊んでいたりたまに本気の喧嘩をしたりしていたという思い出があり、上京してから疎遠になっていたとしても誕生日を祝うことに云年分の蓄積が乗っかるだけの人生を歩んできた一人の人間である」という事実は驚くべきことのようにも思います。要するに、その人なりに苦楽を重ねてきた一生懸命な人生があるということ、人間ひとりが背負う分だけの人生をそれぞれの人間が背負っているということは、実は凄まじいことなのではないかと思うわけです。
誰であれ生きているだけで偉いという全肯定は自分の言葉として言おうとするにはどうしても投げやりになる(アフターケアなしに「つらかったら逃げていいよ」と言うのにも似ていて、無責任な発言にも思えます)のに対し、何気なく存在しているようなひとりひとりにも背負っている一生があるということについては実感を込めて凄いことと言えるし、役に立つとか特別とかそういう水準とは別に人間を尊重できる気がしています。
ここでの論法は、言うなればひとりひとりがなんらか一生懸命であることによって尊重できるというものになっています。本当は生きてるだけで偉いとまで言えれば強いのでしょうが、たとえば40歳過ぎて親の脛を齧って勉強もせずテレビゲームに明け暮れているような人を肯定するのは僕には難しいので、全員を包含できないことに関しては一旦保留にします。そもそも他人の価値を測るなどということが横暴で、他人ではなくあくまで自分自身について、特別さとか有用性とかとは別の尺度によって肯定できるようになるために他人を尊重する方法を模索していた節がありました。
『YOUR/MY Love letter』に出てきた人たちも各々に悩みを抱えていて、それぞれに自分の人生を奮闘していました。兄やんへ注目していた灯織も、一生懸命ペダルを漕いで誰かに思いが届くことに「いいなぁ」と言っています。一生懸命な時間があることがその人が特別な存在であると証しである、というメッセージを両者から共通して読み取れそうです。
このことは他との差異化にこだわってしまうにちかへのアンサーであると同時に、美琴の方にも睨みを効かせているように思えます。先ほどの読解のもとでは、一生懸命な時間があるということの象徴として登場人物の名前が読み上げられたことになるわけですが、対照的に美琴はほとんど人の名前を呼びません。にちかのことを読んだのも記憶にある限り『OO-ct.』での一度きりです。美琴は「ファンに感謝するのは当たり前じゃない?」と言いながら、その実、ひとりひとりに名前があることをよく理解していないのではないか、と勘ぐっています。芸能界に顔が広くスタッフたちのこともよく覚えていますが、実質的には人格ではなく役職でのみ把握しているかもしれず、その人たちにはその人たちなりの苦労があるといった事情を想像できていないことは十分考えられます。
また、美琴は「パフォーマンスで人の心を動かす」ことを目指していますが、正直、人間の心に対する見通しの甘さのようなものを感じます。完璧なパフォーマンスをしさえすれば、人は凄まじさに圧倒され、あとはどうにかなって感動するだろう、とでもいうような。感動するかどうかは見る人のコンディションや好みにも依ると思うのですが、美琴はそうした観客ひとりひとりに人生という文脈があることを無視して、ひたすら完成度の高いパフォーマンスを提出すればいいと考えているのではないかと、そういうことを懸念しています。
あくまで想像の範囲内ではあるのですが、無い話でもなさそうに思っていて、だとすると『YOUR/MY Love letter』はじめ注目されにくい人たちへの注目は美琴に対する(シャニマスからの?)回答でもあるのかなと考えたくなるところです。
われわれを巻き込む
『YOUR/MY Love letter』でもう一つシャニマスの方針的なものを感じたのが、われわれに対する態度です。
これについては『#283をひろげよう』で気になっていたことがきっかけで、「あのコメント返信コーナーは何だったのか?」という疑問が出発点となっています。なのでリプライパーティーの話をしばらく話題にします。
すぐさま思い浮かぶ答えは「解像度をあげて実在感を出してファンを喜ばせるイベント」といったものでしょうか。実際それで決着をつけても別にいい話でもあるかもしれないのですが、個人的に困ってしまうのは解像度が上がるのが嬉しいことなのかよくわからないということです。
解像度を上げるというのは「こういう質問に対して千雪さんならこう答えるのかー」と理解が深まることを意味しそうなのですが、リプライパーティーがキャラクターについての知識を深めるイベントという理解に収めてはならない気がしています。解像度がイマイチしっくりこないのとは逆に、実在感が出るというのはある程度わかる気がしていて、返信が予想を裏切るものだったり逆に予想通りだったりすることで、やっぱ人間なんだなと当たり前な事実を確認することが日常でもたま〜にあるのですが、そういうリアリティならば感じました。
しかし実在感が問題となっているのでしょうか。
つまり現実世界に干渉してくることによって、架空のキャラクターではなく現実世界に存在しているという印象を強める効果を目指してリプライパーティーは行われたのでしょうか。
リアリティを感じたと述べたのと反対のことを言うようですが、実在感が高まったと評されやすいこのようなイベントは逆説的にアイドルたちが実在しないことを強調してもいる気がします。というのは、アイドルたちが存在した痕跡を自分たちが生きる現実世界のものによって感じるという遊びは「この世界に彼女たちがいる」という前提がお約束として守られなくては成立せず、あえて積極的に守らなければいけないほどには実在的ではないという事情を暗に意識させるからです。実在性を上げるゲームに乗っかるためのルールがまさしく実在性を否定しているという構造があり、なんとも両義的なものを感じます。
別にそれで何か問題が発生するわけではないのですが、それで気になるのはそもそもアイドルのリアリティをこれ以上高めたいだろうかということです。
小説でも映画でもそうですが、現実世界のいかにも現実味の強いところを描出している場合、時にフィクションは現実以上にリアルとなります。これまでのイベコミュを見てきた経験から、頑張ったら報われるといったご都合主義をシャニマスは残酷なほど採用しないことを身にしみて理解しており、それこそがリアルに対して持つ力の源であると、個人的に感じていました。そうでなかったら僕はもう少し冷めた目で見ていたと思いますし、ここまで入れ込んでいません。「アイドルたちも頑張ってステージに立っているんだから、自分ももう少し頑張ってみよう(まぁ現実はそううまくはいかないけどね)」といった調子で割り切っていたと思います。
シャニマスの力強さは現実の問題を現実でもかたちを保っていられる状態のまま持ち込んで、なおそれに向き合っている点にあります。少なくとも自分としてはそのように感じていたものですから、アイドルたちはすでにして強烈にリアルな存在であり、現実世界においてなんらか再現しようとしたところで、そこで生まれるリアリティはまったく本質的でない微々たるもののように思われます。別の言い方をすれば、リプライパーティーでのやりとりで解像度なるものが上がったとしても、これまでのシャニマスの補足にとどまっているように思われるということです。
しかし実際、リプライパーティーは革新的な出来事であったろうとも思っています。僕が言いたいのは要するに「リプライパーティーの狙いは解像度とかリアリティとかそんなもんじゃないのではないか」ということです。
整理も兼ねて新たに設定する疑問はこうなります。
「リプライパーティーのいかにもリアリティが増している風な演出は、それまでと何か違う特殊な経験であったと感じるが、それは一体なにか?」
いの一番に気づくのはアイドルとの直接的な応酬が発生しているという特徴です。自分のコメントにアイドルが返事をする(かもしれない)という事態が発生しているということです。
キャラの立ち過ぎたシャニPの陰に隠れて、われわれはプロデューサーにもなりきれないままファンとも言い難い微妙な立場からアイドルに接しているのですが、それはいわばアイドルとプロデューサーという関係性の内部にいるとともに外部にもいる状態です。プロデューサーのセリフも「自分ではこんな気の利いたことを言えないわ〜」と思いながら(発言するのではなく誰かの発言としてセリフを)読んでいます。われわれが関係性の内部にいるということになっているのは、そこで行われているやりとりの一部始終を知っているという点にのみかかっているような気さえします。
だとするとわれわれはむしろ、おおむね関係性から疎外されています。プロデューサーの立場にもファンの立場にも自分の身を置けない人間がアイドルと関係をもつことはどんな形であれ不可能であり、だとすると落ち着くところはせいぜい画面の外と内というところに戻ってくるほかありません。とはいえそれは「考えていったら究極的にはそうなるよね」という程度のことであって、普段はそんなことは気にせずなんとなく関係を築いているかのようにプレイしていればいいし、事実これまで自分の立ち位置をなあなあにしたままプレイしてきた節があります。しかし、ここ最近のシャニマスはそこにテコ入れしようとしているのではないか、と思わされます。
直接リプライがもらえることによって私とあなたの二人称的な関係が構築されるわけで、リプライがもらえなかったとしても自分のコメントを見てもらえる機会に参与し直接リプライがくるかもしれないとドキドキすることは、すでにしてある種の関係性と言えるでしょう。われわれをアイドルの生活の射程範囲内におさめて、関係性に巻き込もうというのがリプライパーティーの魂胆だったのではないかという考えが、ずっと頭をちらついています。
そういうわけで、リプライパーティーは解像度が上がってアイドルのことをより理解できるようになるためのイベントであるというのでは不十分に思われ、自分の生活空間の延長上にアイドルがいるという意識を植え付けるイベントであったというのが今のところの自分の読みとなっています。
生活空間の延長にアイドルがいる、というのがまさに『YOUR/MY Love letter』にかかってくるところです。
コミュの内容としては、登場人物たち(名もなき人たち)の生活の延長にアイドルがいるというものでしたが、僕の読み筋で主張したいのは「登場人物たちとプレイヤーであるわれわれは並列に存在していて、われわれの生活空間の延長にもアイドルがいて、われわれもまたある種の関係を構築していることが言われているのではないか」ということです。
『YOUR/MY Love letter』におけるわれわれの位置を考えてみます。今述べたように、そこに出てくる人たちとわれわれは並列に存在していなかっただろうかと感じています。アイドルとの握手やサインをもらうことなどは物理的な制約があって不可能としても、画面越しに見るくらいの人にとってのアルストロメリアよりは、われわれの日々にとってアルストロメリアの方がはるかに存在感があるはずです。少なくともあそこに出てきた人たちの並びの中に自分を挟んでみることで崩れるロジックはなさそうに思われます。
コミュのうえでは「名もなき人々→アルストロメリア」の一方通行に思われていた矢印が逆方向にも向けられることになり、ある種の関係構築が実行されるに至っていました。当初はアイドルとの関わり方といえば、テレビから流れてくる情報を一方的に受け取るようなもので、そうである限り一般人たるわれわれがやることは自分に合うコンテンツをくれる発信者を選び取ることくらいです。だから発信者側が「(選んでくれて)ありがとうございます」と、われわれに感謝をするという構図になります(余談ですが、こちらからのアプローチはまったく届かないと考えればこそSNSの辛辣な書き込みも可能となるのでしょう)。これに対して、アイドルはじめ発信者との双方向性がいくらかでも保証されているとすれば話は変わってきます。「アルストロメリア→みんな」のブロードキャスト的な関係性から、「あなた(アルストロメリア) と わたし」という二人称的な関係へと変貌します。
それがわれわれにも当てはまることは、まさしく『#283をひろげよう』 でアイドルから返事が返ってくるという経験が大きな根拠となります。リプライパーティーでは確実にわれわれがターゲットでした。画面の向こうにあるコンテンツであり、次のイベコミュは何かなと完全な受動者として振る舞いがちなわれわれ自身が、名指しで話しかけられる機会を得たのがリプライパーティーでした。それを踏まえるならば、『YOUR/MY Love letter』でアルストロメリアと二人称的な関係を築くことになる名前のないすべての人たちとわれわれとは重ねられるべきということになるでしょう。
「すべての名もなき人たち」の中にはプレイヤーたちも含まれており、もはやわれわれは画面の外という安全地帯で無関係にコンテンツを享受する受動的な姿勢を認められていないようにすら思えてきます。少なくともなんらかのかたちでの積極的な関与が推奨されているように感じてしまいます。とはいえ、気軽に楽しんでもらいたいという姿勢も感じるので、ストイックすぎるという指摘はこの読解の急所として認めざるをえません……
微妙な話なので、微妙な話として読み流していただきたいのですが、あくまで個人的な感触としては受動的なエンタメ享受の姿勢はマズいような気がしています(それでも全員がこういうnoteを書くべきとは決して思わないので自分の中でも混乱があります)。
ひとつもっともらしいことを言うとすれば、責任をもって引き受けるということがなくなってしまうのが人間的営みから外れていくことのように思えるといったところでしょうか。宮台真司の言葉を借りれば、日本社会は「任せて文句垂れる社会」です。自分では特に引き受けないが文句だけはしっかり言うという性格があります。(丸山眞男の看破したところでは無責任の体系がはびこっていて、雑なまとめですが、日本人はもっと事情をわかっている誰かに丸投げして自分はただ従っただけというような態度をとる傾向にあります。これ自体は戦争責任をめぐる分析なので一昔前の話とも言えますが、今でもその傾向は変わっていないように思われます。)
「自分はただ与えられた選択肢のなかから好みに合うものを選んだだけで、そのことによって生じた問題には一切の責任をとりません」というのならば、さすがに都合が良すぎるだろうと思うのですが、そういう事例はわりと普通にあります。受動的なエンタメ享受が責任をとらない姿勢を助長するというのがさすがに暴論なのは自覚していますが、自分の意志を介入させたがらないということについては根を同じくしているように見え、大まかな傾向として、うっすらと危機感を覚えています。
そういうことを考えているからか、『YOUR/MY Love letter』に「モブにされてしまいがちな女子高生と女教師の百合が良かった」といった(又聞きで知った程度の)感想に対しては、あくまで自分を関係性の外側の安全地帯に置いたままなのではないか、と見てしまいます。繰り返すようにこれはだいぶストイックな読み筋だと思いますし、好きなものを好きなように享受して何が悪いねんと言われて反論できるものではないのですが、年始からの動向を見ているともしかしたらシャニマスの挑戦は関係性に入ろうとしない人たちを巻き込むことにあるのではないか、といったことを確証も弱いままに考えています。
アイドルたちについて「実在感が高い」と言おうとするならば、自分の人生に影響してくること以上に高いリアリティはないと思うのですが、ある種の関係性に入ることを拒絶しながら実在感の高さを楽しむのは、不自然ないいとこ取りという印象があります。アイドルが現実世界にいるというルールを守ることにする、ということではなく、自らを賭けることで自分にとってのシャニマス世界のリアリティが格段に上がるように思われ、そのように身を賭すだけの覚悟をシャニマスが要求していたりしないだろうかと、半信半疑で考えています。