舞台『オンディーヌ』を観に行きました
1月8日、『オンディーヌ』東京公演を観に行って参りました。
今回が人生初の観劇となります。
演劇には無縁の僕が観に行こうと決めたのは、わかる人にはわかる通り、和久井優さんが出演されるからです。
記事の長さから察せられるところではあると思いますが、結論から言えばめっっっっっちゃめちゃ楽しかったです。
本当にもう観に行ったその日からずーーーーっっと楽しくって。フォロワーさんが開いている通話に参加しては「オンディーヌがやばくって……」と感想を言いまくって場を荒らす妖怪になっていました。
あらゆる面でめっちゃ楽しくて、ロスすら感じないくらいにずっと満ち足りていて、本当に行ってよかったです。
好意的な感想は公に残しておいた方がなにかと良いだろうという気持ちもあり、せっかくなら自分のためにも感想をnoteにも書き残しておきたいなと思っていて、この記事を書いています。
まずざっくり「舞台ってすごいんです!」って感想をまとめることとしますが、内容に触れたうえでこそ熱量のある感想を言えるものなので、脚本についての簡単な要約をはさんで、感想や考察やその他諸々の溢れる想いをつらつら書き連ねていこうと思います。
ざっくり感想
動機
何から始めればいいのかわからないので脈絡なく進めてしまいますが、なかば突発的にチケットを買った経緯から少し述べてみたいと思います。
繰り返すように今回が初めての観劇でして、それまで特に舞台に興味も抱いてこなかったのが正直なところです。それがなぜ急に?と聞かれれば、和久井さんの演技見たさなのですが、ここで個人的に強調しておきたいのが「演技」に興味があったということです。
これも別のところで度々述べていることですが、シャニマス4thライブのときのパフォーマンスに一撃で痺れてしまった経験があり、そこに今回のきっかけがあります。
和久井優さん演じる浅倉透には前々からずっと強い思い入れがありましたが、キャラクターと担当声優の両方を好きになったとしても、それぞれの理由で好きになりたいと思っていたため、推しみたいな感情は特に抱いていませんでした。もちろん透を演じてくれていることへの感謝は深く、だからこそ4thのパフォーマンスを受けて、あの難解な浅倉透をここまで完璧に表現できる和久井優という人間はなんなんだと畏怖すら抱いたのだと思います。
それで和久井優さん自身にも注目するようになり、経歴をみてみれば演劇系の出身とのことで、妙に合点がいきました。というのは、たしかに声の伸びとか質とかによって強烈に浅倉透を感じたのですが、そのときのゆるやかに腕を伸ばす身体動作が声の表現とうまく連携していて、全身で演じておられると直感的に受け取っていたからです。実際はどうかわからないですが、自分としては「この人は声だけじゃなくて指先まで使って表現できるんだ!」と思って、ルーツであるらしい和久井優さんの演劇を見てみたいという気持ちが培われていったのでした。
そして、舞台に出るとのアナウンスを受け取ったのでした。
開演まで
チケットはA席が8500円でS席が9500円ということでした。
今まで観劇の経験がなかったので、正直高いなと思っていたのですが、結果的に破格だと考えを改めるに至ります。
いまだに全然納得がいってないのは、ワンランク上の席にするのにたった1000円で良いということで、当然のごとくS席を購入しました。当日に発券するまで把握しておらずとても驚いたのですが、前から3列目でした。超近いです。
ホールがそもそも小さめで、大学にこれより大きい教室は珍しくないだろうというくらいの規模感でした。その3列目なので、もう、すぐそこです。別に話しかけるわけではありませんが、ちょっと声を張れば余裕で会話できる距離です。近いとオペラグラスなども不要で、セリフを述べている人を視界の端に捉えながら脇でそれを見守っている演者の表情を楽しめたりなんかして、視界を全開で使えるのが最高に楽しかったです。細かい表情も近ければ近いほどしっかり見れますから、どう考えてもS席にすべきですし、なぜ1000円しか変わらないのか謎です。(S席のなかでも当たり席だったんでしょうか?)
また、当日までのあいだに公演の原作を読み込んでおきました。これが多分すごく大事です。少なくとも自分にとっては必須でした。読んでおいてよかった……
観劇は初めてでも戯曲はいくつか読んだことがあります(チェーホフの『かもめ』が好きです)。その経験上、小説と違って一読するだけではいまいちストーリーが入ってこない印象がありました。やはり『オンディーヌ』についても読み終わった直後には「よかった~……けどアレはどゆこと?」となってしまったので、ストーリーを理解するフェーズをあらかじめクリアしておけたのは良かったです。そのぶん本番では内容や演技に集中することができました。
また、話を咀嚼して解釈を入れたりする時間を確保しておいたおかげで、「この場面ではあの人物はどんな気持ちなんだろう」というような着眼点を用意できました。特に和久井優さん演じるベルタは超重要人物のわりに最後の場面では影が薄くなってしまう役柄で、僕の場合、原作を読み終えてしばらくしたあとで「あれ……ベルタ、そういえば?」となるような有様でした。予習しておかなければ本番で不完全燃焼になっていただろうと思います。逆に、当初は意識から逸れてしまっていたベルタに一度想いを馳せておいたからこそ、充実した演技に気づけたと思います。僕が打ちのめされたのは主にそこなのですが、それは内容を振り返ってから改めて詳しく書くことにします。
本番
ここまで書いて気づいたのですが、やはり感想は内容に紐づいているので、基本的には要約を踏まえての感想をメインにしていこうと思います。ここではさしあたり全体的な感想ということで。
和久井優さんに注目して書いてしまいましたが、共演されている方々もすごく上手なのが素人目にもよくわかるくらいには目を見張る演技でした。何が良いかというのは色々あるのですが、「戯曲は演じられるために書かれているのだ」というのを強く理解させられたのは大きいと思います。
シンプルにセリフを聞いているのが気持ちいいんですね。長いセリフを一息に淀みなく言ってのけるのは職人芸を見るような気持ち良さがあります。いい喩えかわかんないですが、プロの餅つきが超速くてなんとなく繰り返し見ちゃう気持ち良さがあるような感じが近いかもです。また、コンパクトなセリフもまた相応の良さがあって、記憶に残りやすいのはこっちです。そしてそういうセリフって自分でも言ってみたくなっちゃうんですね。
たとえば、ヒロインのオンディーヌが恋人ハンスに初めて会って名前を尋ねた後のセリフ
面映ゆいと言いますか、装飾が過ぎる言葉で、笑っちまうような雰囲気でもあるんですが、恋する人間らしい浮き足立ってるイメージにも合いますし、何と言っても耳に残るんですね。で、ちょいと自分も恋する乙女な気持ちになって口ずさんでみたくなる。好きな曲を脳内再生してるときに、サビとか気に入ってるフレーズなんかをちょっと鼻歌歌いたくなるのに近いつもりです。
あるいは、物語の終盤に繰り返されるオンディーヌのセリフ
こちらは言いやすさもさることながら、何度も何度も言われるセリフで単純に記憶に残りやすいです。そして思い出すたび、そのときのオンディーヌの秘めたる思いなんかが蘇ってきて、それを確かめるように自分でも繰り返したくなる感じがあります。こういうのって自分の感覚だと、聴覚刺激ならではの余韻だなぁって思っていて、多分そう思わせるだけの演技があればこそなのだろうと素人なりに思いました。
セリフを聞いていて心地いいというのと同じく、身体所作を見る心地よさというのもありました。腕を伸ばす動作や足の運び方だけとってみてもすごく綺麗で、見惚れてしまいます。スポーツでもなんでも極めて優れた人の動きは総じて美しかったりするものですが、その手の美しさを感じます。
セリフと身振りとが喧嘩しないのだけでも、稽古を積んでいないと難しいのではないかなと、やはり素人なりには思うのですが、さすがプロ、言葉と身体がうまく噛み合っていて観客としては摩擦なしに受容できるんですね。
そういえば舞台に対する個人的な偏見として、いちいち大げさな身振りで誇張して表現するイメージがなくもなかったことを今思い出しました。いざ見てみれば別にそんなことはなかったです。
たしかに大きく腕を広げて語りかけるシーンなんかもありましたが、それは然るべき動作という感じがしましたし、ほんのわずか下を向いて表情が曇るだけの瞬間なんかいくらでもあって、それがセリフ以上に饒舌に語るんですね。これが本当にすごかった。心底感動しました。
今回の脚本がどのように用意されているのかは存じあげませんが、少なくとも原作の戯曲の方では基本的にセリフしか書かれていないんですね。それはどの戯曲でも大抵そうで、それぞれの登場人物の心情が地の文で補足されることがまずないわけです。言ってみれば情報としては抜けの多い文章で、ある人が喋っているときに他の人が何を思っているか、何をしているか、どこを向いているか、すぐそばにいるのか遠巻きにみているのか、そもそも聞こえているのか、そういったことはいっさい明記されていません。しかしその場に居るということだけは間接的に指示されているため、演者さんたちは書かれていないことに大なり小なり解釈を入れた上で何かの演技をしているということになります。
そうしてみると、セリフがない間の立ち居振る舞いが抜群に面白くって、静かに背を向けているその姿があまりにも多くを語っている場面なんかがあったりして、これが最高に面白かったです。予習しておいたからストーリーの理解より演技に集中できたというのはこういう話です。
トークショー
僕が参加した回は舞台が終わった後にトークショーがあり、全然把握してなかったのですが、和久井優さんが登壇される数少ない機会だったようです。これは本当にラッキーでした。
演者の市瀬秀和さんが司会をされ、かわいいオンディーヌ役の中村米吉さんがもう一人の登壇者でした。
中村米吉さんは普段、歌舞伎の女形をやっている方です。
オンディーヌは天真爛漫と形容したくなる無垢でかわいい女の子なんですが、さすがと言いますか、ちゃんと可愛いんですね。もちろん化粧とかもしているんですが、そのかわいさは全体的な雰囲気と言いたくなるようなところから醸し出されていて、ほほぉ~と思っていました。
トークショーではあらかじめ募集しておいて質問に答えていたのですが、歌舞伎の経験が活きたことなどはありますかという質問が(案の定?)出ていました。僕も気になります。
回答は意外なもので、歌舞伎の経験が活きているという感覚はそれほどなかったというお話でした。もちろん身体の使い方なんかはそういう鍛錬のうえで成り立ってるけれども、具体的な足の運び方なんかは全然違うと。女形のときには歩幅を狭くして足に角度つけて股のあいだなんか摺るくらいこじんまり動くらしいのですが、オンディーヌは湖を駆け巡るような子ですから、なんならガニ股にして走ったりして、米吉さん的にもチャレンジングな演技だったとのことです。言われてみれば、ドテドテ走っていたんですが、それでも全体的にちゃんとかわいかったそのバランス感覚が、改めて見事だなと思わされました。
ちなみに自分が送った質問は(然るべくして)読まれませんでした。トークショーの雰囲気が分からなかったとはいえ、限られた尺に読むには長文になってしまいましたし、前々から募集してたのに当日の午前一時くらいに送信しましたし、読まれない方が普通だろうと思います。なんか本当にごめんなさいな気持ちでした。
本当に楽しみな気持ちが高まって(あれでも縮めて)送ったものでして、関係者のどなたかがこの拙文を読まれておられたら、すごい楽しみでルンルンしてた人間がいたことだけ受け取っていただけたらと思います……。
ストーリー要約
満足に感想を述べるためにも、ストーリーを要約してお示しすることとします。
全部で三幕あります。ここでは区切って書きますが、今回の公演では舞台装置としての幕がなかったのもあり、明確な区切りとはなっていませんでした。また、全体の構成も一部大幅な変更があるのですが、混乱を避けるためひとまず原作準拠で内容を追って、変更点については最後に改めて言及します。
第一幕
オンディーヌはウンディーネと表記すれば馴染みが出てくるように水の精です。彼女が人間離れしていることは冒頭から示され、夜でも大雨でも外に出て、湖の真ん中から歌声が聞こえてきたかと思えば、次の瞬間にはそこから遠く離れたところから笑い声が聞こえるという具合です。年齢は来月で15になると言いながら、何百年も生きていると付け足したりもして、人間とは別の理で生きていることが暗に陽に示されます。
しかしオンディーヌの目立った特徴は水の精であるということよりも、むしろその天真爛漫さにあります。人間社会の礼儀を知るつもりもなく敬うべき相手に礼節などおかまいなしに話しかけ、それが時には無礼に、時には無垢に映ります。
すぐに明かされることですが、オンディーヌの両親として登場する漁師オーギュストとユージェニーの夫妻は実際のところ義理の親で、オンディーヌは湖に住むほかの水の精たちと遊んだりしながら夫妻とともに暮らしています。この夫妻の家に騎士ハンスが雨宿りにやってくるところから話は始まります。
当時の風潮なのでしょうが、騎士が突然訪ねてきたことは光栄なことのようで、夫妻はハンスを丁重にもてなします。一方でオンディーヌは一目ハンスを見て「きれい……」と呟くや否や、二人が結婚することが決まっているかのようにハンスに話しかけます。それからなんやかんやあって急に喧嘩したり、かと思ったら急に惚れ直したりして、急接近して恋仲になります。
それで問題なのがこのハンスという男で、オンディーヌが家に帰ってくる前に夫妻にもてなされている間、自分の許嫁であるベルタを猛烈に自慢していたのでした(このベルタが和久井優さんの役です)。ハンスは誰もが羨むような女性を放っておいてオンディーヌに惚れて、あんなやつはもういいんだという勢いで捨てて、オンディーヌに結婚を申し込みます。当然、夫妻からは許嫁がいたはずではと遠回しに突っ込まれるのですが、なし崩し的にオンディーヌとの結婚を通してしまします。
オンディーヌはオンディーヌで、水の精たちから人間がいかに愚かであるかを聞かされ、ハンスを諦めるよう説得されます。その極めつけが水の精たちの王でもあるオンディーヌの叔父との契約です。叔父はハンスが必ず裏切ると忠告し、オンディーヌは絶対にそんなことはないと猛反発し、ハンスがオンディーヌを裏切ったらハンスが死ぬという契約を勢い余って結んでしまいます(原作の戯曲では契約内容はこの時点で明言されてないですが、今回の公演ではけっこうはっきり言ってたような気がします)
幸か不幸か二人は結ばれ、幸せの絶頂のなかハンスとオンディーヌは湖を後にします。
第二幕
舞台はハンスの元いた王宮に移り、ハンスがオンディーヌとの結婚を王に報告する場面となります。とはいえ初めに演じられるのは、侍従や宴の準備に勤しむ人々がこのハレの日に何を披露すべきかと慌ただしく相談するところです。そしてその中にいる奇術師が名乗り上げ、奇怪な技で起こりえない出来事を次々に起こしていきます。その正体は先にも出てきたオンディーヌの叔父、水の精の王です。人智を超えた魔術で「本来ならばもっと未来に起こるはずの場面」を即座に実現してみせます。
第一の場面はハンスが元婚約者ベルタとようやく顔を合わせる場面です。ベルタが飼っていた小鳥が逃げ出したのを追いかけ、ハンスが手袋を咥えていった犬を追いかけすれ違うという状況を水の精の王扮する奇術師が作り上げます。そこで言い争いになり、ハンスが強く手を握った拍子にベルタの手の中にいた小鳥が死んでしまいます。そのことで二人の仲は一層容易ならざるものとなります。
第二の場面はそれから少し時間が進んだ場面で、ハンスとベルタが再び会い、けっこういい感じになります。上流階級の夫人にあるべき知識やマナーを覚えるつもりのないオンディーヌに比べ、ベルタの立ち居振る舞いはハンスの心に適うもので、それはそれは急接近します。
奇術師の出番は一度終了し、侍従がオンディーヌに宮廷のマナーを教える場面に移り、ややコミカルに展開します。侍従の手が汗ばんで湿っていると言及することをオンディーヌはやめず、それが普通はよくないというその普通がどうしても教えられないまま、王や王妃やベルタなどが列席するパーティーが始まります。
オンディーヌは王様に対して敬意を示しつつも礼節をわきまえずに話しかけます。他方でベルタに対しては敵対意識が強く、あろうことかベルタへの文句を王様に訴えかけます(ベルタは王様の養女です)。見かねた王妃がオンディーヌと二人で話をさせてくれと提案し、一時的に二人だけになります。
王妃はオンディーヌが水の精であることを悟っており、理解を示します。オンディーヌもまた王妃に心を開き、ハンスが裏切ったら死んでしまう契約が結ばれていることを明かします。それらを聞いて王妃はハンスを助けてやりなさいと言ってああげて、ベルタに謝ることを約束させます。
再びパーティーに全員が列席し、ベルタへの謝罪がうまくいったかと思えば再びいがみ合い、勢い、オンディーヌはその場に潜んでいる叔父に「本当のこと」を見せるようにお願いしてしまいます。それというのは、さらわれて行方不明になっていたオーギュストとユージェニー(オンディーヌの義理の親)の実の子供が、ベルタその人であったという事実です。ベルタは王の養女としての立場に固執して本当の両親を拒絶し、流れであらゆる信用を失い、王宮から追放されるに至ります。
やりすぎたことに遅れて気づいたオンディーヌはさすがに反省し、彼女の提言からハンスと三人で王宮の外で暮らすことを提案します(突拍子もないこの提案は、実は王妃と二人きりのときに披露したオンディーヌの作戦でもありました。敢えてハンスと近づければ二人の気持ちは逆に遠のくはずだとオンディーヌは考えていました)
第三幕
時間が飛んで、ハンスとベルタの結婚式当日の朝になります。冗談でしょうという感じですが、そうなっています。三人暮らしを始めた後、オンディーヌは姿をくらまし、しかし遠くには行っておらず、どこかから朝な夕な「私あなたを裏切ったの、ベルトランと」と言い続けます。ハンスがノイローゼになるほど繰り返し同じセリフを聞かせ、逃亡したまま半年が経過しようとしている状況からの幕開けです。
これから婚礼であるというのに、オンディーヌの痕跡は執拗に明確で、まいっているところにハンスの家に仕える人間がオンディーヌを捕まえたと報告するのですが、ついでに裁判官も一緒にいたから裁判をすることになったといいます。裁判というのにはハンスも訳が分からず混乱しますが、オンディーヌが引き連れられあれよあれよという間に裁判なるものが開廷してしまいます。
超常現象専門の裁判官を名乗る者によって裁判が開かれ、裁判官は異形のものに騙されたかどでハンスが訴えていると思っているのですが、ハンスからすれば「私あなたを裏切ったの、ベルトランと」という声に困っている以外は訴えるようなことがありません。ハンスは裁判官がオンディーヌが異形だとか騙したとかと言いいはじめると急に態度を変えて否定し始めます。
裁判が進んでいくにつれオンディーヌの目論見が、オンディーヌが先にハンスを裏切ったことにすれば、ハンスは死なないで済むという計算であることがぼんやりわかってきます。そして、オンディーヌが訴えている相手は裁判官ではなく、密かに臨席している水の精の王でした。しかし王の介入によってベルトランが召喚され、オンディーヌの発言と食い違うことが露呈します。さらに、ベルトランを愛しているならキスもできるはずだと実演をせまられ、すんでのところでオンディーヌはハンスに抱きついてしまい、ハンスを裏切ってなどいないこと、裏切っているかのように見せたかったということまで公衆にバレてしまいます。
裁判はそれで終了したものの、問題は水の精の王を騙すことなどできなかったということです。契約の通り、ハンスはこのあと寿命を迎えることになり、オンディーヌの方もハンスとの記憶を全て失うことになると言います。せめてもの温情でオンディーヌの名前を三度呼び、そのときにハンスの死とオンディーヌの忘却を同時にしてやるということになり、二人だけが残されます。
出会った頃のことを思い出したり、死の気配に怯えたりしているうち、名前が三度呼ばれハンスは死にオンディーヌは記憶を失います。水の精の仲間たちが迎えにきたとき、オンディーヌの目にハンスが映ります。
「この人、きれい。どうして動かないの?」
「死んでるからだ」
「このひと好き。生きかえらせることってできない?」
「できぬ」
「すごい残念。ぜったい好きになったんだけど!」
オンディーヌはそう笑って水の世界へと帰っていき、幕が閉じます。
脚本の変更点
以上が長い要約になります。基本的にはセリフも含めて原作そのままとなっていた印象です。とはいえ元が長いので割愛している箇所はたくさんあり、その辻褄が合わせのために説明的に入れたであろうセリフなどもありましたが、特に原作の魅力を損なうような要素とはなっていませんでした。
具体的に気づいたところだと、第三幕にて「だいたい誰なんだ、ベルトランって」とハンスが嘆き、ベルタが「覚えてらっしゃらないの。王宮でオンディーヌに理解を示していた殿方です」という感じで教えていた場面です。原作の方だとベルトランはハンスにちょっかいを出すみたいにわざとらしくオンディーヌに同意を示していたので、けっこう印象に残るのですが、公演ではベルトランの出番を大幅に削っていたため印象が弱くなっていました。そのギャップをセリフいくつかでなんとかしようという工夫を感じました。
というように基本的に原作に忠実なのですが、大幅な変更点がひとつだけありました。それというのが「オンディーヌとハンスの悲劇を水の精たちが再演している」という設定にしてるところです。
上の要約ではあえて書かなかったことですが、冒頭にハンスを助けるようにオンディーヌが叔父(水の精の王)に泣きつく場面があり、叔父は二人の悲劇をわれわれでもう一度演じてみて、それで結末が変わるかどうか見届けよう、と提案します。そしてオンディーヌの裁判が終わり契約の履行が決定してしまう場面に至ると、周囲の人間(水の精)たちが「やっぱりなんも変わらん」と素に戻ります。その後にハンスとオンディーヌが二人だけ残って、最後の場面が演じられるという流れになります。
これに関連することですが、公式サイトでもどこでも役者の役には水の精としての名前が付せられています。たとえば和久井優さんなら水の精キラ(ベルタ)役という表記になっています。
ところが水の精としての名前はたしか作中で一度も呼ばれていないんですね。ジロドゥの戯曲にも出てきません。脚本家の方の意図を感じます。
ストーリーの要約から解釈へと片足を突っ込み、自分なりに受け取ったことを書き残してみます。
劇中で示されない水の精としての名前は、一人一人の登場人物に演じている人物が存在していることを強調するのではないか、というのが最も説得力をもたせられそうな感想です。
オンディーヌが一人で騒ぎ立てている場面であっても、その場には王や王妃やハンスやベルタやベルトランがいます。彼らは背景なのではなく、一人一人の演者が魂を吹き込んで存在させている一つの役であって、それぞれの想いをもってオンディーヌの独断場を眺めているはずです。また、場面によっては賑やかしみたいな人たちも出てきますが、彼らもまた舞台の上で役を持っています。
シーンの中心にいる人物以外もまた、それぞれにつき一人の演者がいて、中心的な人物に負けず劣らずの演技をしています。演者としての水の精の名前を不自然に表記することによって強調されるのは、どんな役でも演者によって魂が吹き込まれて成立しているという舞台の魅力ではないか、そのように受け取りました。
これ以降で続ける感想も、目立たない場面での演技への感動を多く含むもので、そうした個人的な印象を多く反映した解釈ではありますが、まぁ解釈はひとそれぞれでいいものなので。ごく個人的な受け取り方として書き残しておきました。
詳細な感想と感動
簡潔とは言えないくらい長々とストーリーの要約をしてしまいました。が、やはり内容をひとつひとつ丁寧に追ったうえで聞届ける最後のセリフは格別で、後を引くものがあります。公演『オンディーヌ』が究極の愛を描くと述べられるのも然もありなんといったところで、裏切られたとしても相手のために尽くすオンディーヌの姿や、二人の出会いが必然的な運命であったとでもいうような美しいラストです。
その分、と言いますか、初見の読後感ではハンスとオンディーヌの悲恋として受け取っていました。これが予習しておいて良かったことの一つで、僕の目当てであった和久井優さん演じるベルタのことを思い出すのにしばらく時間がかかりました。うっかりするとベルタは影が薄くなりがちです(これだけ重要人物なのに!)
よくよく考えてみればある意味でベルタほどかわいそうな人物はいません。恋人に裏切られ、出生の秘密をばらされ、ようやくハンスと結婚できると思ったらまたオンディーヌのもとへ行ってしまい、挙句ハンスは死んでしまいます。実はペットの小鳥を駆け引きのために自分で殺した疑惑があるので無垢とは言えないのですが、因果応報とはまったく思えず、運命に振りまわされるかわいそうな役回りです。オンディーヌに肩入れしてみれば、邪魔な恋敵になってしまいますが、いざベルタに寄り添って見てみればオンディーヌ以上の悲劇に見舞われていると言っても過言ではありません。舞台が面白いなぁと思ったのは、そういう人物を一人の役者が担当して向き合っているということで、いろいろな場面で、さまざまな解釈をもとに、ベルタの心情が演じられていることに気づきます。
感想1
一番心に残っているのはオンディーヌが王妃と話す前、パーティーでベルタの文句を言う場面です。説明を割愛していましたが、この場面、オンディーヌはベルタの心を読んでいます。
水の精として超常的な力を使えることは冒頭からも分かっていて、ここでは明らかにオンディーヌは聞こえないはずのものが聞こえています。その場で喋っているのはオンディーヌただ一人なのですが、彼女はベルタに向かって「うるさい」と叫びます。
まるで会話しているかのように「あたしの髪?」と言ったりもしていて、しかしやはり喋っているのはオンディーヌだけ。ベルタは自分の黒髪に自信を持っていて、ハンスに再会したときも黒髪に重ねて言い寄っていました。ここはベルタが心の中で毒づいている声をオンディーヌだけは聞いていて、むやみにそれを言いふらして、余計にオンディーヌが不審がられるシーンとなっています。
他にも同じようなシーンがあるのですが、要するに、ベルタには一切のセリフがないけれども、心の中ではたくさんのことを喋っているという場面であるわけです。
原作(脚本?)ではベルタについて指示ないところであったとしても、ベルタはそこで苦しみ、オンディーヌへの悪態を心のうちに抑え、社交の場において優位を保とうと計算をしている複雑な心情を抱えているはずです。流しで戯曲を読む読者はそのことに気づきません。
しかし、役者は舞台の上にいる限りどの瞬間であっても演技をしなければならず、観客は演技によってその複雑な感情を分からされます。
ここ、和久井優さんの演技の説得力が凄まじかった……
一言も喋れないなか、苦い表情で斜め下を向いたり、ハッと息を飲んで、こらえて、我慢ならなくなって完全に背中を向けてみたり、その背中が小さく震えていて、表情は死角になって見えていないはずなのに唇を噛んでいるのがわかるくらいの豊かな表現。全身全霊の演技がセリフ以上に饒舌に心情を語っていることに打ちのめされました。
もちろんセリフのあるシーンの迫力はたまったもんじゃなくて、言い方ひとつとってもそこに乗っかる心情は全然変わってきます。少し遡ってハンスと再会する場面には「そうしようと思っていました……。たまたまここには誰もいませんけれど!」というセリフがあって、直後に口づけをします。
これはハンスに「次の人ができたら人目も気にせずキスしてて離さないといい」というようなことを言われての返しなんですが、ちょっと落ち込み気味にやや諦めきれない雰囲気だと思っていたんですね。それが舞台ではもう胸ぐら掴む勢いで迫って怒気がこもっていて「解釈~~~!!!!」ってなりました。
たしかにベルタは全然ハンスのこと諦めてなくて、おしとやかで上流階級で認められるおしとやかな女性という評判と裏腹に、野心的で内に熱いものをもっている人間です。「なんてかわいそうな私」と憂うのではなく「私ほどの人間がどこかの小娘に負けるなんて信じらんない!」とでもいうような強気な態度と、その解釈を演技で分からせる説得力に心臓を掴まれました。戯曲って演じられるために書かれた文章だったんだ! というのを肌で感じた瞬間です。
間の取り方なんかもすごくて、再会後すぐのところでの掛け合いが好例です。たじたじしながら(声のトーンを落として)という雰囲気のハンスのセリフに重なる勢いで間髪入れず「わたし、いやじゃありませんでした。とても好きでした」と迫っていたりして、怒りと納得のいかなさとで静かに燃えているベルタがそこにいました。どこをとってもすごかった……
感想2
それから王妃様役の紫吹淳さんがビビるほど上手かったです。出番自体は少なくて、オンディーヌの話をしっかり聞いてくれる場面くらいでしか王妃様は目立たないんですが、そこが抜群でした。後から知ったんですが、宝塚のトップスターだった方とのことで、公演ポスターにも大きく掲載されるような有名人でした。どうりで……
王妃様自体、彼女が水の精であることを見抜くツワモノなわけで、そこに大物を置く采配もちょっと納得です。凄いと思ったのは、これもセリフがない場面での演技についてです。場面としてはハンスが裏切ったら死んでしまう契約を王妃様に明かすところです。オンディーヌは「あえてハンスとベルタとを近づければ二人の気持ちは逆に遠のいていくに違いないから一緒に暮らしちゃおう!」という思慮の浅い作戦を自信満々に披露します。
例によってオンディーヌがめちゃめちゃ喋るのを一方的に聞くことの多いシーンです。オンディーヌの作戦は、なんというか幼稚で、うまくいくはずのないものです。善かれ悪しかれ人間のことをまともに理解できないから、無邪気な作戦に自信を持ててしまうし、それが見込みの薄い作戦であることも理解できない。だから王妃さまとしても(なんてこと……)とか(真心は本物なのに、作戦がうまくいかないことを伝えられないならどうしたら……)とか、そういう風に思ってしまいます。オンディーヌはハンスを自分のものとするためではなく、ひたすらハンスのためを思って動いていて、王妃さまもそのことがわかっているから後は「ハンスを助けてやりなさい」と言ってあげるしかないわけです。
…………ということをほぼ言ってるようなもんなレベルの演技をセリフ抜きで表現していました。マジ? 最後のとこのセリフやちょっとした問答はあるんですが、本当に最小限で、あとは段差を登ったり降りたり、その緩急であったり、憐れむような表情であったり、驚きとともに諦めを悟るような表情であったり、繊細な演技によって王妃さまの無言はあまりにも饒舌に心情を語っていました……
いやもちろん上の理解はかなり自分の解釈を入れているわけですが、脚本ではオンディーヌのセリフで埋められているその舞台上の時間に超超超充実した内容を含ませているのがたまんなくて、演技というやつの凄さに圧倒されました。
感想3
総じて思うのですが、古典演目だったのはありがたかったなと感じています。本があれば予習ができるというのもそうですし、脚本がイマイチだと登場人物たちの人間心理も充実し得ないと思うので、その点、時代のふるいにかけられて残っている作品はやはり強いです。
演技だけでなく内容についても考える余地の多いのも嬉しいところです。受け取って自分の糧になるのは文学的なものに触れる営みの醍醐味です。
光文社古典新訳文庫の訳者解説はかなり充実していて、これを自然と人間との関わりとして読解する方針は自分がぼんやり考えていたことと重なって納得感の強いものでした。
自分としては自然は人間にフレンドリーではなく、残酷なほどあっさりと人間を無視できるという価値観で、それゆえに畏怖したり美しく思ったりしています。オンディーヌは自然の側の存在で、人間へと歩み寄って、失敗するわけですが、自然と人間が相入れないこの全体的な感触は自分に馴染むものでもあります。
一方で、オンディーヌは自然の営みではなく人間の営みというもっとも瑣末なものを愛したと水の精の王が呆れながら述べる場面があり、人間の小さな営みの尊さを理解できることにおいてオンディーヌが勝るようにも思えます。
自然vs人間という安易な構図では描けない両者の力関係があるわけで、こうしてみると、その複雑なバランスや関わり方について、古くもあり新しくもあるビジョンを提示してくれているようで、そういうところに古典としての強みを感じます。
また、必然性なんかもテーマとして挙げられると思っていて、最後のセリフはまさにオンディーヌがハンスに惚れる運命にあったことを示唆するものです。
薄々感じておられるだろうように、ハンスはなかなかのクズなんですが、なんでハンス(なんか)を選んだのか王妃さまがオンディーヌに問う場面があります。答えとしては自分が選んだのではなく、何か大きな感覚の方がわたしたちを選ぶんだ、というものでした。(これなんかも自然と人間、特に理性優位で"雄々しい"人間像との違いとして読み取れるところです。)
水の世界の意味での「選択」が劇の結末が示すような運命的な必然を含むのかもしれないと思ったとき今回の公演での脚本変更は、なるほどと思います。というのは、水の精たちによる再演によっても結末が変わらなかったことは、必然性を強く読む解釈となっていることに気づかされるからです。
必然性をめぐる解釈はたくさんできそうで、たとえば自然のもつ決定性の強さを示すとみれば人間にコントロールできない自然の姿を強調して見えます。他方、舞台には脚本があるから全て決まっている(その意味で必然的である)とするなら、結末の変わらなさはむしろ脚本=人間の側の要因であったりもします。
まとまりなくアイデアを出し散らかしていますが、人物の心情だけでなく脚本にも解釈の余地がたくさんあること自体がおもしろく、脚本の変更によって気づかされる視点もあります。そしてそれだけの解釈に耐えうるのはやはり古典の強みであろうと思います。
基本的に演技への感動によって動機付けられているnoteであることもあり、考えもまとまっていないので内容への言及はそこそこにしておきますが、まだまだ触れられていない要素はたくさんあります(オンディーヌは人間の最も嫌うものである真実を見せてしまう、など)。
すでに何度か読んではいますが、それでもまだ読み返したいと思える作品に出会えたのは、それだけでもとても嬉しいことです。
さらに! 読み返しているときに脳内で再生される声や場面があの日の再演となるのは、観に行った者だけが可能な圧倒的なアドバンテージです。
何度でも読みたい作品をもう一度観たい舞台で鑑賞できたことがどれだけありがたい経験か。
この感動、どれくらい伝わっていますか。