『太陽を盗んだ男』 感想など
本アカウントはアイドルマスターシャイニーカラーズ(通称シャニマス)に関連した色々を投げるところなので、たいていの読者にはクドいかもしれませんが、少しだけ経緯を説明しておきます。
シャニマスに出てきたLPと呼ばれるシナリオで浅倉透が観ていたとされる映画として、この『太陽を盗んだ男』が話題に上がりました。映画座のようなこじんまりとした映画館で上映されるものを透は繰り返し観に行っていて、そのたびに寝落ちて最後まで観れていないという風に、シナリオ中では登場した映画です。
透のことを考えるうえでも、それなりの映画好きとしても観たいなと思っていたので、ついに観たわけですが「難しいな」というのが漠然とした第一印象でした。
これは透がどうこうよりも、映画単体で解釈したときにうまく考えられなかったことです。果たして自分が受け取ったものがどれほど的を射ているのかとか、それをどのように評価したら良いのかとか、そういうことで整理をつけられていません。ひとまずは映画を観て考えたことを書いてみたうえで、透が最後まで観なかったことの意味とは何なのか、という点も考えてみようと思います。
映画の感想
映画のあらすじですが、城戸という理科の教師がいて修学旅行的なイベントの最中にバスがハイジャックされる事件に巻き込まれたあとに、何かに感化されるようにして原爆を自室で作り、そのことをチラつかせながら警察や国家を動かしたり、捕まりそうになって逃げたりするというのが大枠です。
城戸は勤務態度が悪い無気力な変人教師として有名なのですが、個人的には彼が原爆を作るとなってからやたら生き生きとしていたのが印象的でした。また、ハイジャック事件の解決に尽力した山下刑事に何かを見出し、原爆を作った人間となったあとは彼を通して要求を告げます。ここは色々読み込み甲斐がありそうですが、以下で触れられていません。良い感じの仲になって逃亡を助ける零子という女性も登場しますが、こちらもほぼ考察に含められていません。
映画の最後で、ほうほうの体で捕まらずに逃げ切った城戸が放射能の影響で髪が抜けるのも気にせず堂々と道を歩きます。そしてカバンにしまってある原爆が起動して爆発音とともに暗転して終わります。
僕の理解の土台となっているのは、原子爆弾のことをエネルギーの塊とみなすという見方で、原子爆弾には原動力として機能しているという面と、命を蝕むという面とがあるように描かれていた、と受け取りました。順に見ていきます。
まず前者について。
原爆の存在を示して権力を動かした結果、ナイターを延長させたり、ラジオを盛り上げたりといった場面がありました。脱け殻みたいな生活をしていた城戸がプルトニウムを精製している日々を生き生き過ごしていたのもその関連ではないかと考えます。原子力爆弾はエネルギーの源泉として原動力となることを示すアイコンのように見えました。
城戸が原爆を作ることにしたきっかけはハイジャック事件にあるのでしょうが、犯人と山下刑事が組み合って格闘していた最中に手榴弾を皇居の堀に投げ捨てるシーンがあり、その光景が城戸を動かした最もクリティカルなものなのかなと見ています。たしかそのとき城戸が爆発に目を奪われていた様子が映されていたと思います。僕の見方では、犯人の感情やら思惑やら彼のエネルギーが詰め込まれたものの爆発が城戸に伝わったという構造になります。城戸はそれによっていわば活力を得て、動き出すことになるのですが、彼にとって生き生きしたものの発露は爆発のイメージであるせいで原爆を作るという行動に至った、と考えていて原爆は彼の生のエネルギーの凝縮であり、人を突き動かす力をも持っているからこそ零子を痺れさせたりもすると見ました。序盤に城戸が授業中に言っていた「エネルギーとは力。力はどのように伝わるか」というような短い発言が、意外と大事なのではないかなと考えています。
(なお、原爆という強烈なエネルギーを持っていながら、それをどのように活用すればいいかがわからないという困惑が描かれていて、これはとてもよくわかるなと思いました。社会に行き詰まりを感じたときなど、巨大な怒りが沸いたりして「なんとかせねば!」と強く思うのですが、結局何をすればなんとかできたことになるのかがわからない、というような自分の経験に重ねたくなります。さらに脱線して『東のエデン』を思い出しています。すっごく雑に言えば、100億円やるから社会を何とかしてみてくれんか?みたいな話で、いざ自分が100億円を使えるとしたら何を成し遂げられるだろうかと考えて、上手い答えを出せずに途方に暮れたことがあります。力はあるのに使い方がわからないということで思うのは、そういう感じの話です)
続いて後者の「命を蝕む」について。
この映画中で原爆は原動力となるといった側面だけでなく、影響を及ぼした結果の成功失敗以前の問題として、エネルギッシュであることの裏面に害があることを示そうとしているように見えました。原爆の有害性が示されるのは、原爆の爆発力による直接的な破壊によってというよりは、放射能を出して知らず識らず命を蝕むという性質を介してではないかと理解しました。
(これは直接的な破壊よりも放射能こそが原爆において深刻なのだというような、原爆そのものについての言及ではなく、物語中で善悪両面のあるエネルギーの塊を示すアイテムとして原爆を持ってきたときに、悪の方の意味は放射能に担わせているのではないかという解釈の話です。)
原爆関連の有害性を最初に示すものにはネコの死や、城戸の髪が抜けたことなどがあります。それらはまさしく放射能の影響ですが、このことで最もインパクトを受けたのは死んだ猫や脱毛した城戸ではなく、それを目撃した人の方でした。実際、ネコが死んだあとの城戸は爆弾をつくる以前に戻ったように萎れていました。放射能の有害さとはつまり、原爆を手元に持ち続けていることによる害ではありますが、その影響を本人が被るのは間違いないのですが、むしろそれを目撃した他人の方にこそ大きな影響がもたらされるのだろうか、と思いつきます。してみると爆弾はある意味では原動力であり、エネルギーを伝達して人々をも動かすものとして映されていながら、その恩恵を受けたはずの人に逆方向の影響を与えるものでもあるということになります。換言すれば、放射能に毒された本人の命を蝕むものであって、エネルギッシュであることが不健康でありうるとなっているのは示唆的ですが、さらにそれが同時に周囲をも巻き込むものかもしれないと意図されているようにも思われて、興味深く見ています。いずれにせよ、そのように放射能のイメージを介することでエネルギー(=原爆)の有害さが描かれているように見えます。
最後に城戸がプールにプルトニウムの破片を入れたとき「逃げろ」と叫んだのも、原爆に力を見出していながらも放射能についてはエネルギーの悪の側面であると感じていたことが現れたのだと理解ました(しかしなぜそもそもプルトニウムを入れたのかは謎なので強気にはなれないところがあります)。
なお遅れての補足になりますが、放射能はむしろそれを目撃した他人にこそ影響をもたらすという見方をしたのは、自身の死を目撃すること関しては、かえって自らに活力をもたらすかのような場面がちらほら描かれていたからです。城戸はたしかに口の出血に気付いて拳銃を自分に向けはしましたが、尾行や警官から逃げたときなどの自分が終わりそうなとき(その究極が死なわけですが)に、かえって生きようと奮闘しており、表情も楽しげでした。髪を抜きながら勇ましく歩いているラストなどは死と向き合うことの積極的意義を示しているようにも見えます。しかし、ここから何を言えるかというとちょっと話が続かないです。死を自分の可能性として掴むことによって本来的な生をいとなむ的なハイデガーチックな思惑があるのでしょうか。考えがないのでここでやめておきます。
少しだけ透の話
以上をまとめると、打ち込む何かを持っているというようなエネルギーに満ちたものを持っている状態として原子力爆弾を理解することもできて、そのことがさらに別の人へとエネルギーを供給する一方で、強いエネルギーを持つことは自身や周囲をいつのまにか蝕むことがある、というような解釈です。
たぶん原子力爆弾を人を動かす「権力」として読んだりもできるのでしょうが、そこには踏み込めていないです。上では「なるほどそういう面もあるよなぁ」と自分に分かる話に落とし込んできたに過ぎず、そのためまぁまぁ真実味のある含蓄を見出したつもりになって映画を視聴したのですが、わかりかねていることはいくつか残っています。
一番困っているのは最後に爆発しちゃうところです。タイマーの音が途絶えるとともに轟く爆発音を残して画面が消失して幕引きとなるので、全てを更地にするような大爆発が起きたのだとは思います。あれの意味がまだわかっていません。全てを終わらせちまえ的な投げやりな暴挙にも、溜めきれなかったエネルギーの爆発にも読めるのかもですがいまいちしっくりはまりません。
そこに躓くのはしかし映画についての解釈としてで、透が最後まで見ていないことの意味はいくらか理解できそうです。透がシンパシーを抱いていたのは爆発しそうな思いを抱えているということで、放射能的な方面は気にしていない様子でした。
ゆるい補足的根拠になりますが、透は教師が作っているものを原爆ではなく「爆弾みたいの作ってる」と爆弾と言って表現しています。また、LPのコミュのサブタイトルに「キッチンできみは火薬を作る」とあったように、原子力に関わるものとしてでなく爆発するものとして教師の作ったものを見ているのではないかと考えるのは穏当なラインだと思います。
そうだとしたうえでエンディングの爆発について考えると、本当に爆発して全てを無に帰してしまう城戸に対して、爆発しそうに気持ちを滾らせながら生活を続けているという対比を読み込むのが良いかもしれません。デベロッパーの言う「街はつづく、人生みたいに」に対するアンチテーゼとして真に「人生がつづく」ということを示していくには、爆発して終わってしまってはならない、ということだったのではないかという解釈になります。
しかし映画の解釈としては色々考えたうえで、煮え切らないものが自覚できないままに何となく残っている感触があり、難しいなぁという第一印象が依然として拭えないでいます。もぞもぞしますが観てよかったなと思える映画でした。