〔植物×シャニマス〕 大崎甜花
最近、植物にはまっています。シャニマスもずっと好きです。
ならガッチャンコすれば良いじゃないということで、前回の記事では植物たちが紡ぐ物語に重ねて霧子を草本に見立ててみました。
とても楽しく書けましたので図に乗ってもう一人やってみようと思います。
このたび白羽の矢が立ったのは甜花ちゃんです。
以前にも「甜花ちゃん良いよなぁ〜」となって記事を書いたことがあるのですが、相変わらず「甜花ちゃん良いよなぁ〜」となっているので、今回も心がそちらに向かった次第です。
一見すると「ダメな子なのに頑張っているのがすごい」とか「ダメなところがあるから支えてあげたい」とかいった煽り方で甜花が売り出されているかのように見えるけれども、甜花の魅力は全然そんなのではなくて、好きなことを素直に100%で楽しめることにあるんじゃないか、という風なことをこのときは書きました。
理解の方向性としては今もそれほど変わっていませんが、植物に重ねる新しい試みに乗じて「ややもすればダメな子として見られてしまうかもしれないけれども……?」というのを、また別様に取り出していけたらと思っています。
植物の紹介
さっそくですが、大崎甜花さんに寄せる植物はこちらになります。
ギンリョウソウ(Monotropastrum humile)
漢字で書くと銀竜草。かっこいいですね。最近ではツツジ科に分類されるようです。
こちらのギンリョウソウさん、エキセントリックな見た目通りに植物らしからぬ特徴があります。というよりは植物らしい特徴を持たないと言った方が正しいでしょう。
「植物らしさ」と言われて思いつくものはいくつかあります。
動物と比べてみたならば動かないことにも目がいきますし、花を咲かせるのも特徴的です。しかしやはり、葉っぱを持っていること、ひいては光合成をすることが植物らしさとして一番に挙がってくるのではないかなと思います。よく植物のことを「緑」と表現しますが、この緑色の正体こそが葉緑体の中にあって光合成を行う当事者たるクロロフィルです。
ところがどうでしょう。ギンリョウソウを見てみるとなんとも色白ですね。引きこもってゲーム漬けの日々を過ごしていたらこれくらいの肌色になりそうで、お休みモードな甜花ちゃんを連想させます。
なぜギンリョウソウが緑色をしていないかというと、答えは単純明快で光合成をしていないからです。光合成をやめた植物。衝撃です。
白状しますと「植物なのにそんなんでいいのか」というのが、僕自身が一瞬感じた第一印象でした。白状と述べた後ろめたさのポイントは「なのに」というところです。このなのには「植物が重宝される場面は多々あれど、その理由はたいてい光合成によるものなのに植物でありながら光合成をしないだなんて」という風にかかっています。
光合成はわれわれの呼吸に必要な酸素を提供してくれますし、環境問題まわりでは二酸化炭素を吸収するはたらきから植物は超重要な役割を担っています。景観として植物が導入される際にも、緑色のもつ効果に期待が寄せられており、先に述べた通り緑色は光合成にゆかりのある色です。
ですから、光合成をやめてしまったら求められなくなっちゃうんじゃ……という気持ちが一瞬よぎったりして「植物なのにそんなんでいいのか」と感じたのですが、冷静に考えて植物は人から好かれるために光合成をしているのではありません。植物たちはただ生きているというのがシンプルな事実です。
植物が人から好まれる理由をいくつか挙げておきましたが、あれらを冷たく言い換えれば、人の役に立つからということになります。この考え方を全否定するつもりはなくとも、それがすべてとは絶対にしたくないのですが、光合成をしない植物と聞いて「ろくに働かないのに生きている」とでもいうようなネガティヴな印象を抱いたのは、意図せずそうした見方が支配的になってしまっていたのかもしれません。
植物なのに云々という個人的な(ひょっとしたら一般的な)感想に対する批判は、まず第一に「植物は人に好かれるために生きているのではない」という点に向けることができました。裏を返せば、役に立つ/立たない という尺度がはたらいているのを指摘することも可能です。
そしてこの指摘の射程は広く、人間評価に関する話題としても取り上げることができ、とりわけ甜花ちゃんにつながってくるところになります。
甜花ちゃんは人に迷惑をかけることも多く、生産的な目標を設定した場合には確実に「役に立たない」側に振り分けられてしまうでしょう。
しかし、みんなの役に立つことや生産性によってのみ人の価値が測られることには当然疑問が呈されるものです。
ここではなぜ問題視されるべきかについては、それほど反論が出てこないことを祈って深掘りしません。話題として取り上げたいのは、役に立つ/立たないという尺度の外側で人が魅力的でありうることを示すとは、例えばどういうことだろうかという疑問です。
そして、その件に関して上手くいっている具体例が、ギンリョウソウと重ねた甜花ちゃんに現れてくるのではないかという話になります。
あいかわらず個人的な経験に依拠しますが、ギンリョウソウに対して抱いた「植物なのにそんなんでいいのか」という第一印象は甜花ちゃんに対するそれと近いものがあります。
記憶を辿れば「アイドルなのに一生懸命とか夢を追いかけて努力とかはまったくなく、無数にいるライバルに見劣りしないためのキャラ付けですらもなく、思いのままに楽をしようとするなんてそんなんでいいのか」と思わせるようなキャラクターとして甜花ちゃんに出会っていました。(懺悔であることをご理解ください)
もし、ダメな子だけどそれが逆に面倒を見てあげたいという気持ちにさせるのだ、といったかたちで人気が出るのだとしたらダメであることを要求してるみたいで嫌だなというのが前回取り上げた話でした。
今話題にするのは別のことで、「ダメな子なのに売れる」という言い方が可能であるとすれば、このなのにはアイドル業界にはたらく市場原理を見据えているのではないかということです。いま、ひとまず市場原理と呼んだものは、アイドルは自らの価値をアピールすることで存在を認められる構造のことで、先ほどまでの役に立つ/立たないの尺度がはたらいている状況とほとんどかさなるものです。
こうした構造自体はアイドルに限らず世の中に馴染んでしまっていますから、特に目立つことがらでもないようですが、ある水準以下の人間について存在価値を認めないという残酷さがあります。
僕が甜花ちゃんを好きな理由は「ダメな子なのに」というのではない仕方で魅力を出してくれているからで、平然と市場原理の外側に立っているようにすら感じるからです。価値のあるなしを判断する尺度が、ひいてはことの良し悪しに直結する秩序に、みずからの思考が縛られていたことに気づくとき、非常に情けない気持ちになりますが、この気づかされはギンリョウソウに対して「植物なのに」と思ってしまった瞬間に再び経験することになったものでした。
光合成をしない
さて、ギンリョウソウに戻って改めて植物が光合成をしないということについて考えてみます。冷静になればなんてことはない当然のことですが、植物だから光合成をしなくてはいけないという決まりはありませんし、当事者でもない人間が分類上の辻褄を押し付ける方がナンセンスでしょう。
そもそも光合成は植物自身にとってみれば太陽光のエネルギーを使って有機物をつくるために行なわれます。栄養を他から十分とってこれるのであれば、光合成などやる必要はありません。
この堂々たる姿勢も、甜花の(アイドルだから一生懸命に頑張るとかいった、その手の常識的なアイドル観にとらわれることなく)お昼寝を要求できるところと重ねたくなります。
植物だからアイドルだから云々という我々の無責任に押し付けがましい眼差しをあざ笑うかのように己の意志に従ってたくましくある姿は、けっしてありふれたものではなく、その稀有な生き様は(レアリティの高さという面も込みで)ギンリョウソウと甜花に共通する特徴であるように思います。
しかし、食べ物を取りに行くための移動ができない植物からしてみれば、生存のために消費する栄養や体を構成する素材を自分で作り出すのは、やむなき生存戦略であったはずです。
ギンリョウソウは歴代植物たちを縛ってきた制約をのらりくらり躱して、根っこから全ての栄養吸収を行います。一体どのようにしてでしょうか。
これにはもう少し説明が必要です。
大抵の場合、植物の根っこは真菌(カビやキノコの仲間)と共生関係にあります。そのような真菌を菌根菌と言ったりします。根っこにとっては吸収しにくいリンを菌根菌が渡してやることで植物が利用できる無機物が格段に増えるわけです。有名どころで言えば、松茸も実は菌根菌で、アカマツの根と共生している菌が地上にまで出てきたものが食用になっています。
キノコもカビも外部から栄養を吸収できる従属栄養生物で、その分解能力は植物の力になるのでしょう。ギンリョウソウが根から栄養を吸収できるのは彼らの力によるものです。
菌根菌の方は逆に植物から光合成産物をもらうため、ここには共生関係が成り立っており、光合成産物の2割くらいは菌根菌に提供しているという話もあるように、菌根菌と植物とのwin-winな関係が両者を繁栄させている、のが通常なのですが……、すでに述べたようにギンリョウソウは光合成をしていません。
つまり、ギンリョウソウの方から返すものは何もなく、一方的に養分を(しかも他の植物ならば光合成で補うようなものまで含めて)菌根菌の吸収に頼っており、このような関係性を生物学的には共生ではなく片利共生(片方に害があれば寄生)と言いますが、いわばずぶずぶに依存することでギンリョウソウは生きているわけです。
すでに色々言ってきましたが、これこそが甜花ちゃんを彷彿とさせる特徴です。言うまでもなく甜花は甘奈に身の回りの世話を任せることが多々あり、特に生活能力に関して依存的であることは否めません。
(節の区切り目にちょっとした補足です。菌根菌は光合成産物を植物から受け取らなくてはいけませんが、ギンリョウソウの菌根を形成する菌根菌はその機会を得ません。どうしているのかという話ですが、同じ菌根が近くの樹木の根とも菌根を形成しており、そこから炭素化合物を受け取っています。なんならギンリョウソウにもパスしているため、ギンリョウソウは樹木にも依存しているというかたちになります。)
依存という生き方
いったん植物の話題を離れて、ネガティヴに受け入れられがちな「依存」について考えていきます。ネガティヴといっても最近では、人はそもそも依存的であるといった見方も馴染んできたように見受けられます。
フェミニズム思想やケア倫理の文脈から出てきた話ですが、たとえばビルの高層階にいるときに火事が起きて1階までおりなくてはいけないとなったという例が挙げられます(熊谷, 2014)。五体満足な人間ならばエレベーターは使えないから階段やはしごを使って逃げるわけですが、車椅子利用者はそのとき逃げる手段がありません。逃走手段として階段とはしごとエレベーターが用意されていたとしても、車椅子ではエレベーターしか使えないという風に、依存先が少ないと言い換えられるわけです。重要なのは、このことを車椅子利用者たちにとっての障害と考えず、健常者が使いやすいようにデザインされていると記述し直せるという点にあります。障害を持っているから依存せざるを得なくなるとみなすと問題を本人に帰属させてしまいますが、社会全体の問題として捉え直さねばならないという話につながります。
ともあれ、人がそもそも依存的であるという見方には納得感があります。極端な話、食料品を扱うすべての店が閉店してしまえば食いつなぐこともできなくなるわけで、我々は自分一人ですべてをなんとかすることなどできない生き方をしています。それでも依存が問題視される場面はもちろんあって、自らの労力を惜しんで他人の苦労の成果物を得るようなフリーライダーといった例を挙げることもできるのですが、諸々を考えるに、こちらの方がむしろ例外的に思えてきます。
依存の問題的な側面を納得するために依存そのものを否定する必要はないだろうということです。とりわけ、程度差はあれど誰もが依存的であらざるを得ないことを考えれば、依存という生き方は視界におさめておかねばならないでしょう。
ここでもう一歩踏み込んで、自然界の出来事としてのギンリョウソウの依存と比較してみたいと思います。(自然現象に教訓を求めることには常に警戒しなくてはなりませんが……)
生物学的には片方が利益を得て片方は害も益もない場合(言うなれば一方的な依存)を片利共生、相手方が害を被っている場合を寄生と呼び分けています。ギンリョウソウと菌根菌の関係は片利共生にあたります。これらの定義に含まれている利益や害というのに注目してみると、それぞれ独立した自立的な個体同士のやりとりとして考えられていることがわかります。上で見たような「そもそも依存的な人間」という理解は、まさしくこの「自立的な個体同士のやりとり」という描像のもとで作られた依存に対するネガティヴな見方を否定したものでした。先の例で言えば、火事が起きて車椅子の人が健常者に迷惑をかける(=損害を与える)というのは筋違いだという含みがあったはずです。
ここで、片利共生や寄生といった区分があくまで生物学上の便宜的な区分にすぎないことを思い出し、改めてギンリョウソウと菌根菌を見てみたとき、個と個の関係というよりは「それらすべてによって一つである」と考えたくなってきます。とはいっても少し飛躍しすぎではあるので、イメージの共有を試みるにとどめます。
菌根とは単に菌根菌が根を覆うようになっているのではなく、根を構成する細胞の隙間に入り込み、場合によっては細胞の内部に菌体を突っ込むことで形成されます。細胞レベルで密接につながっており、生存の前提としてさえいる関係性は、利害によってむすびついた協力関係というよりも臓器と臓器のあいだのコミュニケーションに近いものを感じてしまいます。これが「それらすべてによって一つである」というイメージでした。
ちなみに、全てではないにせよ大半の植物が菌根を形成しています。ある植物がどの菌根菌と菌根を作るかなどはまちまちで、植物によってはきわめて多種の菌根菌と共生できる子もいれば、限定的な相手としかつるめない子もいます。
菌根の形態なんかも様々でアーバスキュラー菌根というものですと、けっこう柔軟に植物と菌根の組み合わせが変わってきます。ギンリョウソウはモノトロポイド菌根という形態で、お相手はかなり限られます。(遊川, 2014)
こうしてみると、依存先が多いか少ないかという違いのみでそもそもみんな依存しているという先ほどの見方と重ねたくなってきます。とはいえ、菌根なしで生きているやつもいますし、それが自然であるとか本来的であるとかいってしまうのはやりすぎでしょう。ここで主張したいのは、独立した個体同士が損得に基づいて競争したり協力したりといった見方は人工的な概念であって、その見方に縛られる必要はないというところまでです。
まとめ
以上の胡乱な道筋を経て甜花ちゃんに戻ってみます。
甜花ちゃんが甘奈や千雪さんやプロデューサーなどに対し、ときたま申し訳なさそうにしつつも基本的にためらいなく頼る姿は、見方によっては自分のことを自分でできない依存体質として、いわば欠点とみなされうるものです。その見方の代表的なものが、人間がそれぞれ自立して存在しており個人個人が各々の損得を配慮することで関係していくといった描像に基づいています。
依存を欠点とみなす立場が前提としているこのような見方は怪しいものであるという批判はしばしばなされるものです。とは言っても、頼ってばかりになってしまうことに後ろめたさを感じるのは、あって当然のことでもあります。そうした煩悶を抱えたときに輝いてくる一つが、ずぶずぶに依存しながら生き生きとしているギンリョウソウの佇まいです。なんといっても依存しっぱなしで開花まで持っていくのです。また、人から非難されてしまいそうな依存関係の類例が、まさしく自然なことであるという事実も個人的には救われることです。
そしてまた、同じ励ましを甜花ちゃんからも受け取ることができます。甜花ちゃんには不思議な魅力があって、別に可哀想だからとかカッコつけたいからとかいった理由からではなくシンプルに喜ばせてあげたくなる気持ちにさせられます。僕はここにある種の美しさを感じていて、一方的に受益しているとか自己犠牲とかいった構図に還元しては見落としてしまう大事なものがあると思っています。人がそもそも依存的であるというのが常識への批判にとどまらず、積極的な意義が、そのことによって生まれる美しさがあることに励まされるのかもしれません。
簡単に取りこぼしてしまいそうな、この絶妙さを言葉にすることにはまだ難儀しています。それは筆者の力不足に依るところも大きいでしょうが、いくらかは文学の領域であろうとも言い逃れしたいところです。
甜花ちゃんの愛される力が価値が測られるところの外側にある魅力であることを、外縁をなぞるように書いてみました。
今回の主題は以上になります。こちらはちょっとした余談です。
ギンリョウソウは菌根菌なしには生きていくことができないのですが、この菌はどこからやってきたのか、という話です。種が落ちた土中にちょうどいい相手がいればいいのですが、そういうことができるのは基本的に誰とでも菌根を形成できるタイプの植物です。ギンリョウソウは相手を選ばなくてはいけませんから、そのようなやり方ではギャンブルが過ぎます。ではどうしているかというと、タネになる前の微小花粉中に菌が潜んでいて一緒に芽吹くという戦略をとっています。それで成長してからも一緒にいられるわけです。
という話をどこかで仕入れたはずなのですが、出典を見つけられませんでした。間違ってたらすみません……。それで余談に挟み込みました。
この話が合ってたとして思ったのは、生まれる前から一緒とは甘奈じゃないか!親から渡されたものが陰ながら支えていると見ればデビ太郎じゃないか!ということでした。引き続き捜索しておきます。
参考文献
福田健二 編, 2021『樹木医学入門』朝倉出版
熊谷晋一郎, 2014「自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと」『TOKYO人権』, 第56号(東京都人権啓発センター)
遊川知久, 2014「菌従属栄養植物の系統と進化」『植物科学の最前線(BSJ-Review)』第5巻(日本植物学会)